あれか、これか。
人生は二者択一の葛藤の連続です。
入園前の子どもにとって、安心できる家の人と一緒に過ごすか、勇気を出して幼稚園の列に加わるか。
ああしなさい、こうしなさい。そう言われて「正しい選択」を強いられるのではなく、自分の心の中で、「よし、いこう」と誓い、実行に移す日があるはずです。
入園前にその覚悟を決めるか、入園後に腹を決めるのか。どちらにせよ、「よし、いこう」と心の中で自分を奮い立たせる日があるはずです。
大事なことは、その決断を子ども自身が下し、園生活に参加する、という事実です。
この決断を大切に見守り、その後の園生活の諸活動も、温かく見守るかぎり、子どもたちは自分でいつも「よし、やろう」と心に決めて、扉を開き、困難を乗り越えていきます。
ブログに何度か書いていますが、古代ギリシアの英雄ヘラクレスは、岐路に立ち、安楽で快楽に満ちた道か、困難を伴うけれども真の栄光に続く道か、どちらを選択するか、問われる場面があります。
彼は、迷わず後者の道を選びました。
このエピソードをふまえ、英語には「ヘラクレスの選択」(The Choice of Hercules)という表現があります。
幼稚園生活を送る子どもたちは、単に好きなことをして楽しく遊んでいる「だけ」ではありません。
むしろ、そのように幸福に見える日々を過ごすためにも、子どもなりに毎日「ヘラクレスの選択」を迫られ、「よりよい道」を選択すればこそ、調和と幸福を享受する資格を得ることができるのだ、と思います。
幼稚園の大事な仕事のひとつは、この選択にたじろいだり、安易な道を選ぼうとする子どもに対し、「それでいいのかな?」と問いを出すことであります。
それは「叱る」という形とは違います。
私は朝の登園時に山道の中に入ってから、ふざけ続ける子と一緒に列を見送り、「君は本当の~ちゃんか?」と尋ねたことがあります。「本当の~ちゃんはそんなことはしない」という気持ちをこめ、しっかり目を見て問いかけると、私の言いたいことが伝わります。「ハッとした」表情を浮かべることもあります。
子どもなりにしてはいけないことはなにか、頭では重々わかっています。あえて「だめ」な道を選び続けることがあり、それは自分に注意を引くためであったり、ある種のSOSのメッセージであったりもします。
たとえば、かつて年長男児が涙を浮かべて登園したことがあり、あとでわかったことは、お母さんが妊娠したという事情がありました。
してよいこと、悪いこと。悪いことをしたら叱る。という単純な話で片付く問題ではなく、たとえるなら、言葉の行間を読むような地味な作業が不可欠です。
ダメなことをしたら叱る、を繰り返すことは、心理学的にいえば、大人が子どもを「支配する」方法です。「支配」でなく「励ます」道がある、と思います。
それは子どもを人として信じる道です。自分がちゃんと言わなければ、目を見張らなければ、この子はちゃんとしない、言うことをきかない、という立場とは異なります。
2000年以上昔のローマの喜劇に次のセリフがあります。
実際、親に平気で嘘をついたり、だましたりするような子は、
他人にはなおさら平気で嘘をつくものだ。
親としては、子の廉恥心を育て上げ、寛大な態度でしつける方が、
脅しを使って締め上げるよりもずっと大切なことなのだ。力で得た支配権が、友愛で結ばれた絆以上に
揺るぎない確かな価値をもつと信じることは、
わしの考えとはまるで違っている。わしのやり方、方針はむしろこうだ。
罰を恐れて義務を果たす者は、
事がばれるのを恐れる間だけ気をつければそれでいい。
ばれずに済むと思ったら、また自分のしたいことに取りかかる。
一方、親切心で結ばれた子供は、何をするにせよ心を込めて行うもの。
親に恩返しをしようと努め、親がいてもいなくても変わらぬ自分でいるだろう。
父親のなすべきは、息子が他人に脅されてではなく、
自分の意思で正しく行動できるようにしつけることである。
この点で、父親は奴隷の主人とは大違いだ。このしつけのできない者にかぎって、
子の教育がうまくいかないと告白する羽目になる。
子どもをどう教育するか。子どもの勇気ある「ヘラクレスの選択」を信じることが、教育の要諦だと私は思います。