三つ子の魂の行方

英語で子どもをインファントと言いますが、原義に照らすと「言葉を話せない者」という意味になります。赤ちゃんもそうですが、言葉を自由に操れない小さな子どもたちは、大人に何かを訴えるとき、言葉より行動や態度で─泣いたりすねたり怒ったりして─様々なメッセージを送ります。

周囲の大人が、声なき声も含めた子どもの心の声に日頃から注意深く耳を傾け、その心を理解しようと努めるかぎり、子どもは安心して自分の思いや考えを言葉に託して他者に伝えるようになります。この安心を子どもたちが幼児期に日常的に実感できるかどうか。これは子どもたち一人一人の人生にとっても、また子どもたちを受け入れる社会にとっても、大きな意味を持ちます。

かりに大人が忙し過ぎて心に余裕がなかったり、自分の都合で物事を判断しがちな場合、大人が子どもに返す言葉の頻出語は「ダメ」と「イケマセン」になりがちです。この場合、子どもが汲み取ってほしかった心の声は誰にも受け止められず、封印されたままになるでしょう。それが日常的に積もり積もれば、小学校に上がっても、言葉を用いた学びの世界を肯定的にとらえ、言葉を使って積極的に社会に関わることに意義を見出しづらくなります。

子どもの「どうして?」に対して、「そんな(馬鹿な)ことを聞いて何の意味があるの?」と返すか、大人が子どもと一緒に「どうしてかな?」と考えるか、その違いは大きいです。「どうして?」の言葉を守られて育った子どもは、学ぶこと自体に興味を抱き、末広がりに自らの学びの世界を広げ、深めるでしょう。

「大人は、だれもはじめは子どもだった」(サン=テグジュペリ)という言葉があります。「はじめは子どもだった」ことを忘れずにいる大人とは、三つ子の魂の輝き―好奇心や感受性―を失わない大人のことです。そのような大人に囲まれた子どもは、安心して学びの道を歩むのに対し、その心が枯渇した大人に囲まれたとき、子どもは、競争と位置づけなければ勉強に意欲を燃やすことはありません。「三つ子の魂百まで」という言葉は、大人が「三つ子の魂<を>百まで<忘れない>」という意味で理解したいと思います。

子どもは無邪気に見えますが、魂の次元では大人と何も変わりません。それだけに、自分を見つめる大人の眼差しに真心があるかどうかを敏感に察知します。教育を巡る議論は子ども<を>どう教育するかに集中しがちですが、本当に大事なことはむしろ、大人<が>人生の初心である三つ子の魂をいかに忘れずに生きるかにあると思われます。

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