子どもの好奇心を守るという話を私はよく述べます。
昨日書いたことと関係しますが、これは大人の責任です。
大人は子どもを「指導する」立場と自認しているので、「逸れないように」、「曲がらないように」気を付けがちです。
そのレールは大人が便宜的に設定したレールなので、大人の都合でできあがったものです。
もちろん、過去の経験に裏打ちされた「間違いのないレール」ということです。
しかし、過去は過去であり、時とともにレールは古くなります。
レールに乗るか、降りるかの二者択一ではありません。
私は「きちんと指導する」という意識の人(=白と黒の区別をつけたがる人)には、世の中には「白と黒の中間がある」という話をします。
わかりやすい例として、いつも司馬遼太郎の「ニューヨーク」のエピソードを引用します。
中1の英語の最初の時間に「ニューヨークってどういう意味ですか?」と先生に質問したら、「ばかもの。地名に意味などあるものか」と怒鳴られた、という話です。
先生はつまらぬ質問につきあうと、予定通り授業が前に進まなくなる、と恐れています。
子どもの好奇心につきあうと、大人の予定は狂います。子どもの質問を邪魔なものとし一切質問を受け付けないのか、どこまでも質問を受け付けて前に進まなくしても平気である、とするのか。
今の学校教育のルールからいけば、前者が正しく後者は過ちです。
私はこどもの質問に興味を持つかどうかがポイントだと思っています。
その気持ちを子どもは共有したいと思って言葉を発するのです。
レールから降りるか降りないかが本質ではない、ということは、司馬遼太郎少年が求めたのは、答えでなく共感だったということです。
司馬さんは独学の勧めというエッセイの中でこの話に言及し、自分は学校の先生には見切りをつけ、図書館であらゆる本を読み独学した、と述懐し、「しかし、本当によいのは、よい先生に学ぶことである」と述べています。
よい先生とは「なんでも知っていて、なんでも答えてくれる」先生ではなく、子どもの好奇心に興味、関心を寄せる先生のことだと思われます。
「おもろいこと考えるねえ」とか、「ほんまやな。なんでヨークにニューがつくのやろ」という受け答えでよかったということです。
「先生も知らんかったわ。あとで調べとくね」と言って、本当に後で調べて答えたら、先生と生徒の心の絆は深まります。
これは言うは易く行うは難しです。
なぜなら、先生自身が人間として好奇心を失っていては、こうした質問に対し人として素直な反応を返すことができないからです。
そして、その態度を子どもたちは黙ってみています。
司馬遼太郎は、好奇心を失った大人のことを、干からびた人間のヒモノと表現しました。
みずみずしい感性を備えた子どもたちがいつのまにか自信と自尊心を失っていくとしたら、やはりどこかがおかしいのです。
いまこそ大人自身が自分の心を見つめなおす必要があると思われます。