以前山びこ通信に寄せたエッセイを再掲します。昨日のテーマと関係します。

大人の言葉、子どもの心――思い出を力に変えて

山の学校では『論語』の素読を担当しています。子どもたちと接していると、当時の何が今の自分の心に残っているのかと考えます。そうすることで、子どもたちに接する自分の心や言葉が整えられる気持ちになるからです。

小学二年生の時、鴨川にクラスで遠足に出掛けたことがありました。皆好きな場所で遊ぶのですが、私は岸辺でぼんやりと対岸を眺めておりました。すると担任の先生がそばに来られ、「この川の幅は何メートルあると思う?」と問われました。キョトンとしていると、地面に三角形の絵を描いて、これこれしかじかで何メートルくらいかはわかる、と言われました。もちろんその説明の意味はわかりませんでしたが、今自分は何かとても大切なことを教わっているのだ、というあらたまった気持ちになりました。そのときの先生の力強い指の動きは今も蘇ります。

その後中学に上がり、数学の時間に幾何学を学ぶ ようになると、「あれはこれだったのだ」と合点し、一人でどんどん問題に挑戦するようになりました。 時間はどれだけかかってもいい、回り道をしてもいい、正しい道を歩み続ける限り必ず問題は証明できる、という確信が当時の私を奮い立たせました。その結果、何がどうなったのかと問われると答えに窮しますが、後々幾何学の母体たるギリシャ・ローマ文化に惹かれるようになったのは、このときの経験が一役買ったように思います。

と、このようなことを書きながら、私は「思い出は力になる」という自分の信念をここで強調したいのですが、だからといって、子どもが将来大人になった とき、どのような言葉がどのような思い出に結晶するのかと問われても、具体的なお返事をすることはできません。人生は一度きりであり、一つとして同じ人生はないからです。頼りない話のようですが、それが事実です。ただ、そう認識することで、少なくとも 大人が子どもに自分の価値観を押しつける愚は回避できるように思います。

もちろん、子どもは大人の助力なしに大人への道を歩めませんので、何らかの導きは必ず必要になります。そのとき、大人は子どもに何を語るべきでしょうか。私の例をふりかえるとき、先生は私を数学者にしようと思ったはずはありません。ただ、この知識はこの子の「何か」につながるに違いない、と信じる気持ちがあったことは十分想像できます。私はそのことに対して、今も感謝します。次世代に何かを伝え、残したい、といった教育の原点にある気持ちが先生の心にはありました。それが大人になった今、私にはっきりと伝わってきます。

私にとって、教育とはそういう意味での「思い出の種まき」です。心を込め、祈る気持ちをもって行わなければなりません。月に一度の『論語』の素読の時間は私にとって貴重なひとときです。大人の言葉で書かれた孔子の考えを、いかにかみ砕いて子どもたちに伝えるか。考えるだけでも難しい課題ですが、目の前にずらっと並んだ子どもたちの目を見ていると、言葉は自然と湧いて出てきます。子どもたちに問いを出すと、様々な発想で答えが返るので、同じ言葉を取り上げても、私の解説はいつも違うものになるのが面白いです。

次世代に何を伝え、残すのか。この問題に対する答えは人によって様々ですが、私は、今までも、そしてこれからも、「古典」と「対話」を大切にしていきたいと思います。

(補記)今から8年前は『論語』の素読を担当していましたが今は行っていません(中・高対象の英語特講のみ担当しています)。

関連記事: