先日「雨のち晴れ」、「雨降って地固まる」の言葉に言及しました。
文字通りの比喩です。
「雨のち晴れ」には「苦あれば楽あり」的なニュアンスがあります。
雨は「苦しみ」で晴れは「楽しみ」です。
雨が先で、晴れは後です。
「苦しみを乗り越えての喜び」というとらえかたも可能で、このとき「苦難を乗り越えての栄光」という西洋の古い言葉と結びつきます。
一方、「雨降って地固まる」は人間関係の軋轢を乗り越えて結束が強まるという意味で使われることがあります。
この言葉も、雨と地面の固まりの関係では、雨降りが先で地面の固まりがその後の出来事としてとらえられています。
「雨のち晴れ」は英語のAfter rain the sun. に対応しますが、この英語表現のルーツはラテン語の Post nubila Phoebus.(ポスト・ヌービラ・ポエブス)です。
「のち」に当たる言葉(post)は「向こうに」の意味もあわせもちます。
このとき「雨の向こうは晴れ」と解釈し直すことができます。
「雨」は「雨雲」と訳せる単語なので、「空一面雨雲がおおっていても、その向こうに太陽が輝いている」と理解できます。
「雨」と「太陽」は時間的に前後する関係でなく、同時に存在しうるもの同士となります。
現実は雨、すなわち苦しみだとすれば、同時に存在しうる太陽とは何でしょう。
現実に対する理想です。
雨降りの日に太陽を目で見ることはできませんが、我々は太陽が消えてなくなったとは思いません。
現実がいかにわれわれに苦しみを与えても、同時に理想を見失ってはならないと思われます。
「雨のち晴れ」の考えだと、「つらいことを耐えたらやがてよいめぐりあわせもある」という慰めが得られますが、いつになったらそのめぐりあわせになるのか、わかりません。
また、晴れの後はまた雨が降るという不安もぬぐいきれません。
一方、「雨雲の向こうに太陽」の考え方に立てば、見えない太陽の存在を信じる力が問われていることに気づきます。
理想と書きましたが、子どもでもわかる言葉で言い直せば、「本当に大事なこと」です。
どんなに世の中が暗黒に見えても、「本当に大事なこと」は消えてなくならないし、それを信じる心を失ってはいけないと思います。
雨の日に太陽がなくなったと言う幼児を大人は笑いますが、たとえば実学重視ということで大学における「真・善・美」の探究を軽視するなら、そうした子どものことを笑えません。
子育て支援は大切ですが、それによって子どもたちの教育が後回しにされることがあるのなら、私は困難を承知でその教育を守りたいと思います。
Post nubila Phoebus.(ポスト・ヌービラ・ポエブス)
「困難を乗り越えての栄光」という解釈も素敵ですが、困難の中にあってなお「本当に大切なこと」を見失わない心、あるいは、理想を求めて学びの山を一歩一歩登る人間の営みを応援する言葉として、私は「雨雲の向こうに太陽」と解釈したいと思います。