日本語の卒業に当たる英単語をめぐるエッセイを以前書きました。
日英の発想の相違が興味深く思われます。
以下引用します。
卒業と始まり
「卒業」といえば、どのような英単語を思い浮かべるだろうか 。和英辞典を引くと、commencementという言葉が見つかり、ちょっとびっくりする。commencement は、もともと「始まり」を意味する言葉だからである 。一方、「卒業」の「卒」を漢和辞典で引くと「終える」という意味が見つかるが、commencementには「新しい旅立ち」というニュアンスが認められる。視点の相違が興味深い。
「卒業」といえばgraduationを思いつく人の方が多いだろう。語源はラテン語のgradus(グラドゥス)で、「階段、段階」を意味する 。つまり、階段を一歩ずつ登るイメージがgraduationという英語にはこもっている。大学の四年間の生活を例に取れば、一回生のときは、建物の一階、二回生は二階にいる。そして「卒業」する学年になると四階にいるということだろうか。では、五階はどこに?
日本語の「卒業」という言葉から発想すれば、大学院に進学する人は別館五階への階段を登る、就職する人は「出口」(exit)から「さようなら」と手を振って去る、といったイメージがつきまとう。しかし、英語の場合、graduation にせよ commencement にせよ、四年間学び終わった学生全員に対し、もう一段上方に足を踏み出すよう促す言葉となっている。
つまり、イメージの上で語るならば、日本の大学は閉ざされた四階建ての建物になっているのに対し、グラデュエイション(graduation)という英単語の喚起する心象風景は、むしろ山登りのイメージである。世界で初めて大学の基礎を創ったプラトンに言わせれば、人間として善く生きる道を登っていくこと、と答えたかもしれない。山頂には「善のイデア」(究極の真理 )が位置している、とも。
たしかに、人として「真・善・美」を学び知ることのできる場所は大学に限定されるわけではない。逆に、大学で行われる学問研究も、個々人の真理の認識を深めるのに役立たないのであれば、どれほど優れた評価を他人から受けようとも、その人は「学びの山」を登っているとは言われない。
一方、山道を登っていると、ちょっと見晴らしのよい場所で立ち止まり、眼下に広がる町並みを眺めるとき、あるいは遙かにそびえ立つアルプスの山並みを地上では見ることのできない角度から眺めるとき、清々(すがすが)しい気持ちになるものである。
私のイメージする卒業式とは、そんな「山登りにおける小休止」といった趣がある。ちょっと気づくと、今来た道と変わらない「階段(gradus)」が、相変わらず上方に果てしなく続いている。私たちは、人として学び続ける限り、一生このような形で階段を登っていくのだろうか。山頂に近づくと、どんな景色が見えるのだろうか。