今日は1学期保護者会を開きました。

前半は事務的な内容のお話、後半は幼児教育にまつわるお話をさせていただきました。

「和して同ぜず、同じて和せず」(論語)の言葉、「道の道とすべきは常の道に非ず」(老子)の言葉などをもとにあれこれお話ししました。
古典の言葉は短くても、あれこれ想像を巡らせる余白があるのが特徴で、とくに『論語』はその宝庫です。

ただし、解釈の応用例はビジネス面に特化したものが多いので、一見すると子育てと『論語』は結びつかないようにみなされますが、事実はその逆です。

このブログでも「論語」で検索していただくといろいろ出てくると思います。冒頭の「学びて時にこれを習う・・・」は学習の根本姿勢を伝えるものと受け止められますし、「君子器ならず」は教育の本来の目的は何かについて考察するヒントになるでしょう(世の中の「声」は器づくりに親の関心を導こうとします。ビジネスになるからです)。

終わってから色々と感想を聞かせていただきました。
「暇」と「遊び」の解釈に関連して、自宅で「シャボン玉の遊び方」を研究したらものすごく楽しかったというお声もいただき(いろいろ奥深いそうです)、そのときお子さんもさぞ楽しかったことでしょう、と思いました。
インドアもアウトドアも、大人が「なんのためでもない」自由な時間を大切にすることで(=童心に帰って遊ぶこと=好きなことに夢中に取り組むことで)、子どもたちは幸福な空気に包まれると思います。

なぜわかり切った話をするかと言えば、他国に比べ、「暇」という言葉に対して罪悪感をもつ空気が日本の場合、色濃く感じられるからです。
目的意識や規範意識も大切ですが、過剰に持ちすぎるとストレスでしんどくなります。

子どもたちの「遊び」を観察していると、目的意識のない、充実した時間の使い方のお手本を知ることができます。
砂場も鉄棒も、かけっこもどろじゅんも、何であれ夢中に取り組んでいる子どもたちに「なんのため?」とインタビューするほど愚かな行為はないと思います。
これを愚かと認識できるかぎり童心が守られており、これを当然だと考える人は司馬遼太郎のいう人間のヒモノ現象が進行中です。

現代は、好きなことをする時間があっても、特に何をしてよいか思い浮かばない、という大人(小学生以上?)が増えているようです。
大人が仕事以外の時間の使い方がわからず、「時間つぶし」しか思いつかなくなる一方なら、大人は子どもを手本として、童心に帰る練習をしないといけないでしょう。

私たち大人は、子育てを通じて古来人間は童心に帰る貴重な機会を得てきたと思われます。

追伸
その1) 私がブログを続ける理由は、保護者(現在、過去、未来)に伝えたいことがあるからで、なぜかといえば、本園の場合、山の上に建物があるため、園にふらっと立ち寄ることがしづらいから、中の情報(ハードの部分もソフトの部分も)がつかみづらく、そのため、私やIkuko先生のブログ、「おやまのえにっき」を通じてできるだけまめに情報発信をしていきたいと思うわけなのです。

その2) しかし、百聞は一見に如かずというように、未来の保護者の皆さんには園庭開放その他の機会にぜひ一度足を運んでもらいたいと願っています。

その3) 上の写真は祖父の家で今はおばが住んでいますが、写真の左奥に思い出の紅葉の木が見えます。小学校時代毎日のように登っては市内を眺めていました。

その4) 読書のお勧めは?という質問を受けました。今回のテーマとの関係でいえば、ミヒャエル・エンデの『モモ』一択ですね。時間泥棒から盗まれた時間を取り戻す女の子の物語です。このブログでも何度か書いたことですが、この作品は二千年前のローマの哲学者セネカの作品『人生の短さについて』に大きな影響を受けています。

その5) 保護者会最後にお伝えした、「小さいものも調和(concordia)によって大きくなる」のコンコルディアは英単語の「心」と関係していますか?という質問をいただきました。英語にcordial(心からの)という形容詞があります。会社名にもなっていますね。cord-の部分がラテン語のcor(心)に由来します。accord(一致、調和)にもcor(心)が見つかります。

その6) 「出さなかった一枚の絵」の話をしました。以前書いた記事へのリンクを載せておきます。

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