『お山の幼稚園で育つ』に書いたエッセイの一つに少し手を入れました。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉があります。これは、人としてできる限りのことを行い、あとは天の意志に任せるという考え方を意味します。しかし、この言葉を逆に解釈し、天命を待たずに人事の限りを尽くす場合、心がしんどくなります。

私は「天命」という言葉の代わりに「たまたま」という表現を用いたいと思います。うまくいったのも、いかなかったのも「たまたま」と考えてはどうでしょうか。こう言うと、日頃うまくいっている人には、人生は「たまたま」では切り開けない、すべては自分の努力の結果だと反論されるかもしれません。

しかし、うまくいかなかったときどうなるでしょうか。それも自分の努力不足のせいである、だから次はもっと努力しなければならない、となるのでしょうか。そうなると、自分をどこまでも追い詰めてしまいます。あるいは、周囲に足を引っ張る原因を探すかもしれません。しかし、原因探しは徒労に終わるでしょう。人生に本当の意味での正解はないのですから。

振り返れば自分の人生そのものが「たまたま」の連続です。就職も結婚も例外ではありません。人生は、突き詰めれば「努力」プラス「運」です。成功経験のある人ほど「運」の要素を忘れがちです。

天の眼から見れば、すべては「たまたま」であり、運命の采配の下に置かれています。失敗と思ったことが後から振り返ると「あれでよかった」と思える例、あるいはその逆の例は枚挙にいとまがありません。一言で言えば、「人間万事塞翁が馬」ということであり、この言葉も「たまたまにゆだねなさい」と意訳できます。

授かった子どもとの出会いや、その子どもの個性も天の粋な計らいであると思えばよいのではないでしょうか。

子どものやることなすことは、大人の目から見れば失敗の連続です。しかしそれは、子どもが失敗を恐れないからこそ挑戦を続けている証拠です。その失敗を挑戦の結果と見なさず、未熟ゆえの過ちと捉えてばかりいると、親も子もしんどくなります。果ては、「もっと言って聞かせないといけない」、「自分のしつけの失敗だ」と考えるならば、それは行き過ぎです。

子育てはほどほどにがんばるくらいがちょうどよいと私は思います。小さいながらも子どもには子どもの人格があります。子どもの立場になって考えてみてください。自分の一挙手一投足を親によって「成功/失敗」で評価され、その都度一喜一憂されるのは悲しいはずです。小さいながらも心でつぶやいているでしょう、「自分は自分だ」と。

私は幸いなことに、これまで努力しない親を見たことがありません。だからこそあえて申し上げたいのです、「人事を尽くして天命を待つ」と。「やるだけやっているのだ。あとは野となれ山となれ」と物事を受け止めるくらいでちょうどよいのではないかと思うのです。

私は仕事柄、天気予報をよく見ます。運動会や遠足など、この日だけは絶対晴れてほしいと思っても、当日無情の雨だったということはしょっちゅうあります。そんなときは雨空を恨んでも仕方がなく、「雨降って地固まる」という言葉もあるように、予定が延びたことで得られるメリットをいろいろ考えるようにしています。

幼稚園に通ってくる子どもたちは、晴雨にかかわらずいつも前向きです。普段と変わりなく、レインコートに身を包み、淡々と山道を登ります。年長児は、溝の中を勢いよく流れる雨水を見て「すごいなー、すごいなー」を連発したり、「お山の上はどうなってるやろ?」と話し合ったり、「カタツムリがいっぱい出てくるんじゃない?」と楽しみにしたり、余裕の笑顔で会話を交わしながら登園します。

一方、年少児の中には雨がきっかけでたまに弱気になる子もいます。ある雨の朝、石段を登りながら「雨、きらい!」と年少児Aちゃんが言いました。雨が降らないといろいろ困ることがあるよ、という話をしていると、隣の年少児K君が、「雨が降ると、それが地面にたまり、その水がお空に上がり、また雨が降って・・・」と説明してくれました。すると後ろにいた年長児のT君が、「雨が降るとお花も喜ぶし」とナイスフォロー。こんな感じでたわいのない話をしているとAちゃんの笑顔も戻り、最後の石段も元気に登りきりました。

何事も心の持ち方一つで見え方は変わります。雨が降っても、風が吹いても、太陽がまぶしく照っても、そうした自然現象は人間の受け取り方一つで、ポジティブにもネガティブにも見えてきます。人間の都合から見れば、春夏秋冬、完全に満足の行く日は数えるほどしかないでしょう。逆に、どんな天気であっても、自然の恵みに感謝できる人は、すべての一日一日が輝いて見えるはずです。

子どもの個性も同様です。慎重で思慮深いタイプの子も、ネガティブに見れば引っ込み思案な子になり、元気で活発な子も、見方一つで落ち着きのない子に早変わりします。「あばたもえくぼ」という言葉通り、長所も短所もすべてが個性のきらめきであるとポジティブに受け止めるか、一方、欠点をなくせば完璧な子になると信じつつ、もぐらたたきのようなあら探しを続けるのか。

子どもにとってどちらの視点で見られるのが幸福であるか、答えは明らかです。自分の存在を全面的に認めてほしいというのが子どもの本音でしょう。そして、同じことは大人同士の人間関係すべてについても言えることではないでしょうか。

ローマの詩人マルティアーリスは「毎日その日の贈り物がある」と言いました。同じように、「すべての個性は天からの贈り物である」ととらえることも可能です。親がこのような認識でわが子に接する限り、どの子も水を得た魚のように、どこまでもまっすぐに成長するでしょう。

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