日本語で「遊び」という言葉は誤解されやすい言葉だと思います。

「苦楽」の別でいえば、「遊び」は「楽」につながる概念で、反対に「勉強」は「苦」と結びつくイメージがあります。

わが国の学校教育では、「楽しい」と「遊び」を遠ざけ、「勉強」と「苦しい」を奨励しているかのようです。

苦しくても嫌でもやり続けるためには何らかの圧力が必要で、日本語の「勉強」の「強」は「強いる」を意味します。

しかし、本来の「学び」は周囲の「叱咤激励」の類は不要です。

幼児は園庭でしたいことをしたいようにして遊びます。

条件を適切に整えれば同様に、老若男女問わず生涯楽しく「学ぶ」ことができる、つまり、人は幼児が遊ぶように「楽しく」学ぶことができる、と私は信じています。

条件を間違って設定すると、例えば、学びと競争を結びつけると、学びは苦痛と結びつき、けっして長続きしません。

園児の遊びを見ていると、誰に言われなくても、何かが上手にできる子を見て、「よし、わたしもやってみよう」と自分で自分に声をかけ、何度も練習をする子が現れます。

一人、また一人とその子どもが集まり、無心に取り組みます。

大人として「よかれ」と思って、そうした子どもたちを前に、誰が一番、誰が二番、と順番を付け、「応援」する必要はありません。

たとえば縄跳びの場合、一人一人の取り組みを見つめ、正確に数を数えることに徹すればよいだけです。

子ども同士が「比較」を意識しても、大人が率先してそれを利用して競争をあおることは禁物です。

楽しかった取り組みが、長い目で見ると楽しくなくなるからです。

反対に、(無理をする必要はありませんが)、一人一人が前回とべたかを覚えていて、今日は前より飛べるようになったね、と言葉をかければ、子どもたちは喜びます。

言葉をかけるなら、その程度にすべきです(叱ることと同様ほめることも難しく、感情をこめて喜びをあらわにしすぎると、他者の評価を気にして取り組むようになるからです)。

繰り返しますが、学びの道は本来楽しいものです。

学校の勉強が苦痛になるのは、成績をつけ、順番を付けるからです。

たしかに競わされるとやる気を出す子がいることも事実ですが、世の中には上には上がいます。

競争原理であおりたて、短期的成果を上げても、最終的には自信を奪われる構造です。

その結果、かけがえのない個性の輝きも徐々に光を奪われます。

「岡潔:私は義務教育は何をおいても、同級生を友だちと思えるように教えてほしい。同級生を敵だと思うことが醜い生存競争であり、どんなに悪いことであるかということ、いったん、そういう癖をつけたら直せないということを見落していると思います。」(小林秀雄・岡潔対談『人間の建設』より)

一方で、

岡潔:人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむつかしい。 (同著)

自分が「やってみよう」「おもしろそう」と思って始め、「極端にそれに取り組めば必ず好きになる」ということが「遊び」の本質です。

大縄跳びは子どもたちに人気があり、好きな子は飽きることなく挑戦し続けます。

砂場で遊ぶ子は、モグラのように穴を掘り進め、時間を忘れて没入します。

「よし、やろう!」と自分にゴーサインを出すのは自分であって、他人ではありません。

それに対して、他人に促されて(=命令されて)何かに取り組んでも、集中は続きません。遊びではないからです。

遊びとは、自分で決めた課題への挑戦です。その課題が他人(親や先生)の思惑と一致することもありますが、主体は子どもであるべきです。

主体性が守られるかぎり、必ず一人一人の「好き」は持続します。

学校の勉強も、他人との競争意識をぬきにしても、楽しむことは可能です。

大事なことは、幼児期の徹底した「遊び」の経験を通し、「楽しい」、「面白い」の基準を高く保つことです。

「楽しい」、「面白い」はああいう感じ、「あの感じが得られなければ自分はやりたくない」と言える感覚の基準をしっかり経験しておくことです。

司馬遼太郎は好奇心に満ちた子でしたが、ニューヨークはどういう意味ですか?と英語の授業中に先生に質問し、地名に意味などあるか!と一喝され、英語嫌いになったそうです。

司馬氏は「面白い」の基準が高かったため、退屈な授業とは決別し(試験は白紙で提出)、図書館で心を満たす日々だったそうです(「独学のすすめ」による)。

司馬氏は(小中学生向けでも)専門家の書いたものはたまたま出会った学校の先生よりはるかにわかりやすく、自分の好奇心に応えてくれるので、図書館に入り浸りになったと述懐しています(理想はよい先生に出会うことだとエッセイの最後で述べてますが)。

以上のように考えるとき、子どもの疑問に即答することが答えではなく、子どもの疑問を尊いものだと理解することが大事だとわかります。

「星の王子さま」の冒頭に出てくるエピソードのように、その疑問・関心に共感する大人はほとんど少ないのが世の常です。

小学校以上の勉強に向けて、何が一番大事かと言えば、子どもたちの疑問・関心に最大の敬意を払い、「楽しい」、「面白い」の基準を高く保ってもらうことだと思います。

それがあれば自分で工夫して楽しく学び続けます。

それが確実に守られたなら何も心配はありません。親は子どもの知的好奇心の輝きを尊び、見守るだけでよいのです。

それが「ある」と信じられる限り、断じて数字による評価は気にしなくてよいのです。

逆に、目の前の数字の評価がすぐれていても、子どもの輝きが感じられない場合、無理な圧力がかかっていないか(自分によって or 先生によって)疑えばよいと思います。

試験で5問中3問しかできなくても、好奇心の輝きが認められる限り、正解の3問だけに着目し、「全問正解、万歳!」と言ってあげればよいのです。

子どもは大人に近づくにつれ、残りの2問をなんとかしたい、と思うようになり、どうすればそれが可能かも自分で考えます。

そのうえで活路を見出すなら、それは他人が向上心の自由を奪ったことにならないでしょう。

学びの世界をまっすぐ子どもたちが喜々として歩むうえで大事なことは、大人が周囲の評価にあおられず、子どもの自尊心、自立心、好奇心を信じて見守ることに尽きます。

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