子どもを褒めて育てたい。誰もがそう思います。どうすればよいのか。保護者からよく相談を受けます。
<褒めることと叱ること>は表裏一体だと思います。叱るというのは語感が強いとすれば、「諭す」という日本語があります。同様に、おだてることと怒ること(=感情的になること)も。もちろん大人も人の子なので、ややもすれば、これらがごちゃごちゃになることもありえます。
しかし、私は少なくとも、幼稚園の先生には、これらの区別を自分の中で明確にしておくことを日頃からお願いしています。
おだてることと褒めることはまったく別のことです。難しく言えば、筋が通るか通らないか、ということを子どもたちは敏感に察知します。大人が気分に任せて耳あたりのよいことを言っても、それはタマタマのこと。気分次第でほめないで・・・という気持ちになります。
褒めるには(叱ることも)事実に基づいた物の言い方をしないといけません。大人は相手が子どもだとつい油断するようですが、自分の用いている言葉は誰が聞いても「もっともだ」と思えるものでなければ子どもの心に届きません。
その点、叱ることも褒めることも基本は同じと言えます。どちらの根っこにも、子どもに立派に育って欲しいと願う大人の心があります。逆に、怒ったり、(それを埋め合わせるかのように)おだてたりするのは(子どもの欲しいものをあれこれ買い与えるのも)、(子どもでなく)大人自身の心を満たす言動であることが多いです。
朝、登園する道ではいろいろなことが起こります。4月の頃、年少児のA君がふいに手をつないでくれていた年中児のB君の胸のあたりを叩きました。「叩く」と言っても、年少児のすることなので、涙が出るようなダメージはありません。ただ、B君の顔がこわばったのは事実です。A君には正当な理由は何もなく、表情には怒りと言うより「やってみたけど・・・」と、私の顔を伺うような表情も感じられました。
私たち、お山の幼稚園の先生は、送迎の道中において、単に子どもたちを引率するだけでなく、教育しているという自覚をもっております。どうしてもここはしっかりお話をしないといけない、と思ったときは、列からその子を引き離し(全体の引率は他の先生に任せ)、ひざまずいて目と目を合わせ、子どもを注意することがあります。
ただ、このときは、それほど大げさに扱うほどのこととも言えませんでした(このあたりのニュアンスは言葉で再現しづらいのですが)。私はA君を叱るより(もちろん注意はしましたが)、むしろ B君をほめました。A君に対し、「A君、お手々で人を叩くのはおかしいよ。ほら、よく考えてご覧。普通はほかの人に叩かれたら叩き返すことがあるでしょう?そして喧嘩になっていくね。でも、B君をみてごらん。君に叩かれても、A君の手をしっかり握ってくれているね。これがお兄さんだ。これは小さい人にはできないことだ。さすがB君、お兄さんだからできることだよ」と。
穏やかに語れば、三歳の子どもでもわかる理屈だと思います。いずれA君が年中、年長児になったとき、優しく頼もしいお兄さんになることでしょう。少なくとも、その気持ちをこめて私はお話ししました。
このようなエピソードをお読みになり、なるほど大事だと思う人もいれば、そんなことどうでもいいじゃないか、と思う人もいるでしょう。ただ、私には、また、私たちの幼稚園の先生には、このような小さいことも、無視できない、なおざりにしたくない、という気持ちがあります。それが「お山の幼稚園」なのです。
子どもたち同士の関わりのあるところには、常にこのようなお話をするチャンスがあります。見逃してよいケース、ここはしっかり話をしたいと思うケース。
言うまでもなく、子どもたちは心と心をぶつけあい、様々なことを学んでいきます。大事なことは、「経験」という事実をもとにし、その都度、子どもたちに「本来あるべき姿」を伝えていくことだと思います。
これは実際的な現場の感覚なのですが、子どもたち自身、そのような学び(言い換えれば大人に諭される経験)を待望しているふしもあります。というのも、穏やかに諭した後の子どもたちは、心なしかスッキリとした顔に見えるからです。
さて、このような大人と子どものやりとり。これがクラスの中でのやりとりであったとしましょう。
先生がお話しする言葉は、当事者以外の子どもたちもみんな耳を澄ませて聞いているのです(遊んでいるふりをしていても、子ども同士のトラブルに、他の子どもたちは無関心でいられません)。その言葉を他の子どもたちも、「ぼくも(わたしも)そう思う」と感じさせる、共感させることができたなら、先生は、一つの事例を通じ、クラス全体の子どもたちをよい方向に導くことができるのです。また、その結果として、「この先生には自分の胸の内を明かしても大丈夫」という信頼を勝ち得ることもできるでしょう。こうしてクラスが一つにまとまっていきます。
私たちの幼稚園では以上のように考えます。一見ささいに見えても、そこに、子どもたちにとって、また、私たちにとって、大事な学びの機会が含まれていないか、主に放課後の時間を使いながら先生たち同士、ときには私も交えながら様々な事例について語り合います。
根底にあるのは、一人一人の成長を心から願う気持ちです。本園ではどの先生もが、このような気持ちを等しく胸に抱き、日々、子どもたちを<褒めることと諭すこと>に心を砕いております。