梅雨らしい毎日が続くなか、お山の上はあじさいがきれいに咲いています。あじさいは雨が降っても絵になる花ですね。あじさいといえばカタツムリ。この時期幼稚園に登る石段にはカタツムリがよく見つかります。朝登ってくるとき、必ず誰かが見つけて「カタツムリはっけ~ん」とうれしそうな声を上げます。年長児にとって、そんな身近なカタツムリは俳句の初回に登場した季語でもあります。
「あじさいに のぼろうとする かたつむり」。これは数年前の園児のつくった俳句ですが、この時期、あじさいを見るたびに思い出します。
俳句といえば、今は1つの俳句に4日かけています。俳句の時間は週に一度、一ヶ月に1句紹介するペースです。今週ちょうど2つ目の俳句が終わりました。「五月雨を 集めて早し 最上川 芭蕉」という句でした。今週の俳句の時間は、今までで一番長く黙想の時間を共有することができました。現代っ子にとって、正座をし黙想するといった「あらたまる」時間は日常縁遠いものでしょう。それでも、回を重ねるごとに、全体で静寂を楽しむ空気がみなぎるようになってきました。
さて、今週特筆すべきことは、子どもたちからずいぶんたくさん俳句をもらうようになったことです。「おはなはね なんできれいに さくのかな」といった、自然に目を向ける俳句が多いように感じます。子どもの作った俳句も全員で声をあわせて朗唱します。そのひとつひとつをよく記憶していると驚かされます。先週ある女の子の俳句を紹介したのですが、その子はお休みでした。それで、今週その子が登園したのでもう一度紹介したら、ちゃんと「いまのは先週やった俳句やね」と覚えていました。
一茶や芭蕉の俳句を繰り返し唱えていると、自分も5・7・5のリズムにのせた言葉を作り出したい、とムズムズするようです。そして発表する。中にはかわいい絵をそえて。また、中には一文字ずつ色を変えて・・・。
俳句のいいのは、それが「子ども向けの」芸術ではないという点です。大人も子どももない。いいものはいい、という世界です。子どもは大人が思う以上に本物に敏感で、本能的に「いいもの」を感じ取る力でいっぱいです。生きた昆虫に目を輝かせるのも同じ理屈です。
子ども時代に何を見て何を感じ、どんな思い出を育むのか。私は、一度きりの子ども時代こそ、できるだけ「電気じかけ」のもてなしから遠ざかり、「本物」に出会う経験を大事にして欲しいと願っています。