このところ晴れが続き、園児は外遊びの時間をおおいに楽しんでいます。その分、目に見えない疲れが蓄積しています。体だけでなく、気持ちも疲れる時期でもあります。いろいろな個性が集まり生活を共にする場、それが幼稚園です。公園で遊ぶのと違って、お母さんの助けはなく、自分で人間関係を円滑に保たねばならない、一方、自分のしたいこと、要求も通したい、etc. 喧嘩もし、仲直りもし、…その繰り返しです。

本園の場合、歩いての登園ですから、年中、年長児は年少児と手をつなぐという課題があります。いずれ年少児が登園に慣れたら、年中、年長同士手をつなげるケースが増えますが、今は年少児と手をつなぐことをお願いしています。ところが、年少の子どもは(年中、年長児の気持ちの中では)なかなか言うことを聞かない、という風に映るケースもあります。責任感の強いお子さんほど、幼稚園の先生と同じ種類の気苦労を背負い込むことになり、それが目に見えないストレスになる時期でもあります。

しかし、これらすべては時間が解決します(年少児もやがてたくましく歩けるようになる、クラスの人間関係も互いに癖がわかり、思いやったり、譲り合ったり、助け合ったりできる)。上で述べたことは、毎年この時期に目にする事例であり、3学期になれば、今のクラスの先生、友だちと別れるのがつらくなるのは毎年のことでもあります。

それまでは山登りと同じです。一歩一歩、石段を登るように歩いて山道を登っていくのです。クラスの先生も、お友だちも、みんな一つになって、日々様々なドラマをともに経験し、笑いも涙もともにするのです。「他人は他人、自分は自分」という考えの対極にある世界が園児の日常の世界であり、それゆえに悲喜こもごもの純度の高さは大人の想像以上です。

ここに関わる大人(先生も親も)に一番大切な条件は、「まごころ」で接するということだと思います。子どもの世界は必ずしも大人が想像するほど「平和」な日常ばかりではありませんが、いつも真っ直ぐな人間の心がそこにはあります(嘘を覚えるのは叱りすぎるからです。叱る理由が問題です。子を思う親のまごころに根ざした「叱り」は心に届きます)。先生にせよ親にせよ、「育てる」技術ばかりが問われるご時世ですが、私は技術を生かす人間の心が大切だと思います。

大人はたしかに子どもに比べ忙しく、ここがいつも問題になります。時間は限りがあります。しかし「何か」のために大人が子どもの目を見つめ、子どもの言葉をじっくり聞くチャンスを失っているとすれば、子どもはその「何か」の犠牲になっているということです。大人が問うべきは、自分が「何を」いちばん大切なものと考えているのか、という一点です。私がここで「大人」と書いて申し上げたいことは、保護者だけでなく教職員も含めての課題(もちろん私自身を含む)であるという点は、前回の園長便りで申し上げたとおりです。

大人が心に「ゆとり」をもつことが子どもたちに「まごころ」で接する「ゆとり」につながります。これはなかなか難しいことです。しかし、園生活を送る子どもたちも、日々「難しいこと」に挑戦しているのです。親にはその難しさ(心身両面にわたる)を具体的にうまく説明できないだけです(問い詰めても子どもは答えに窮するだけで逆効果です)。

幼稚園は子どもが育つ場であると共に、大人も育つことのできる場であると思います。子どもの成長を通し大人も成長できたらと(私も大人の一人として)願います。

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