俳句は正座をし、ご挨拶をし、黙想をします。私が言った言葉を5,7,5ずつ区切りながら全員で声を合わせます。その繰り返しです。
型に始まり型に終わるといっても過言ではありません。今取り上げている芭蕉の俳句について今日は簡単な説明をしました。ものの1分程度か、それ以下です。すると、「あ、それ知ってる。ぼくこのあいだ・・・」と合いの手が入ります。
その声を自発的な発言とみなし、やりとりをすることは簡単にできますが、私はしません。「何か思い浮かんだら心の中でお話ししてね」と言っています。
自発的な発言を封じているとみなされるかもしれませんが、そのとおり。「型どおり」の俳句の時間は私から子どもたちへの一方通行に意味があると思っています。
長い説明は省きますが、「型」は子どもたちに安心と自信を与えます。「型」を徹底するとき、自分で俳句を作るなど、創造にエネルギーが向かいます。
それが熟成しない段階で、安易に「型」を崩すことを許すと、全体の張り詰めた空気が乱され、静かに心にしみこんでいくはずのものが途中で止まります。
「守破離」という言葉もありますが、日本の伝統的な学びのスタイルが「型」を重視することは周知のとおりです。
時代はそれを崩そうとしているようですが、失うものも多いと思います。
孔子の言葉を借りれば、型に終始するだけではよくないが、型を無視するときそれは危険につながるということになります。
今日も友達と卒園児の「俳句」を最後に紹介しました。ささやかな「型破り」の時間であると自分の中では位置づけています。