平和の二文字を見て思い浮かぶことは人さまざまだと思います。
私はこうして日本語を書いたり読んだりできる日常は当たり前ではないのだろうと思います。
古い時代のものを読むと、戦争で敗れ祖国を失った民族の話がよく出てきます。
国を失うことは言葉を失うことでもありました。
幼稚園で子どもたちといっしょに俳句の時間がもてることは、きわめて平和な営みだと思います。
各家庭で本の読み聞かせができるということも同様です。
私がなぜ幼児教育とともにラテン語教育に情熱を注いでいるのかについて書きます。
それは子どもたちの将来をよりよくすると信じるからです。
死語であるはずのラテン語は今も西洋文化の真髄を伝えてやみません。それを知ることは、私たちの文化にとって自分を照らす鏡を得ることにほかなりません。
今の日本の教育は、そしてその結果を反映した為政者の教養はバランスを欠いています。
明治の開国以来、「富国強兵」、「殖産興業」とならび、「和魂洋才」という言葉も日本のスローガンであり、今もそれは続いているかのようです。
和魂洋才とは、洋魂は不要だという意識を反映します。洋魂を知らずして和魂はわかりません。
同様に古典にふれずして現代はわかりません。
地球規模(グローバル)でものごとを考え、他国の人たちと分け隔てなく力を合わせるべき時に、いまだにナショナルかつローカルかつテンポラルな見方が根強いとすれば、それは謙虚に洋魂を学ばずにきた結果だろうと思います。
教育について付言すると、学校教育を考えることは、根っこに当たる幼児教育をどうするか、そこを真剣に見つめないといけません。入り口があり出口があるからです。
しかし、現実に幼児教育に関して話題となるのは、教育がどうあるべきかという議論ではなく、いかに保育園のキャパシティーを補完できるかという観点に世間の注目は集中しています。
子どもたちの未来を想うとき、日本の社会が中身の充実した、地球レベルで誇らしいものとなることを祈らずにいられません。