今日は祖父糸賀一雄の命日です。54歳で他界しました。今の私と同じ年です。「この子らを世の光に」という言葉を残しました。
7月末の痛ましい事件について思うことは、人はモノではないという簡明な事実です。
生きることが光であり、障害者の生き生きと生きる姿は闇夜を照らす蛍のように信じられたのでしょう。むろん、今もそう信じることが出来ます。
ただし、このことは障害の有無に問わず、言えることです。
そして、人が精一杯生きることそのものに価値があるという認識に立てば、いたずらに一人の人間の「生産性」を数値で競う理由は見出せません。
この関連でアインシュタインの次の言葉も思い出されます。
Try not to become a man of success , but rather a man of value.(成功者となるなかれ、むしろ価値のわかる人間になりたまえ)
今の社会は、そして世の教育はa man of successを求め、増やそうとしますが、それはa man of valueを虐げる可能性をはらみます。
a man of valueはプライスレスなものに価値を見出すことができる人です。様々な情報に毒されると、知らず知らずのうちに、a man of successは a man of valueより偉いと錯覚し、自分がそれを目指す、あるいは自分の子どもにそれを目指させるように促されます。
社会の通念からは、超然と距離を置きたいものです。
祖父の書いたものから一箇所引用します。
脳性小児麻痺で寝たきりの一五歳の男の子が、日に何回もおしめをとりかえてもらう。おしめ交換のときに、その子が全力をふりしぼって、腰を少しでも浮かそうとしている努力が、保母の手につたわった。保母はハッとして、瞬間、改めて自分の仕事の重大さに気づかされたという。(『福祉の思想』より)
プライスレスなものに気づくチャンスは、日常のあちこちにあるのでしょう。しかし、それが貴重な光であることに気づくには、世の中があまりに人工の光で氾濫しているように思われます。