昨日は、はからずも子どもたち同士、キャッチボールをしてその回数を数えたり、フープで遊びながら、自由にポーズを決めたり、それぞれのクラスでちょっとした運動遊びに取り組みました。

私が鉄棒指導をするとき、サーキット走りをさせることがあります。園庭に鉄棒を並べ、それをくぐって走り抜けてから、灯籠横の石段を降り、ことりぐみの前の道をかけぬけ、再び石段をかけあがり園庭へ。こういう指導をするとき、ここ数年の傾向として、「これは競争と違うんやな」と確認する子がいます。背景にどういう心理があるのかと興味をもっておりました。

そんなおり、今朝年長の男の子が「運動会は嫌やな。リレーせなあかんし」と私に言いました。その子は続けて「なあ園長先生。勝ち負けをつけへんといてくれへんか」と。周りの子どもたちも手をつないで歩きながら、ちょっとした「大人の会話」を黙って聞いています。私は間を置いてから、「そやな。たとえば手をつないで走ったら勝ち負けつかへんな。でも運動会にならへんな。」と言うと「ほんまや」と同意してくれたので、私はさらに続けて、勝ち負けについて私の考えを語りました。要約すると、勝って偉そうにするのは駄目、負けて嫌な顔をするのも駄目(勝って奢らず負けてくさらず)ということです。たまたまテニスの好きな男のだったので、このたびウィンブルドンの決勝でフェデラーが死闘を制した話をし、勝ち負けがあるからがんばれるということを言い添えました。

蛇足ながら、勝ち負けのあるスポーツについて常々思うことは、優勝する以外全員「負ける」わけで、優勝した人も永遠に勝ち続けることはないということです。つまり、およそ「選手」と呼ばれる人なら、どんな大選手であろうと(フェデラーも含め)100パーセント「敗北」を経験します。それがスポーツです。

逆に「敗北」や「負け」を経験しないですむには、何らかの仕方で自分より「弱い」相手ばかりを選ぶか、試合に参加しなければよいわけでしょう。幼稚園児に負けたくなければ、小学生の高学年になってから幼稚園児相手にかけっこの「勝負」を挑めば、まず勝てるでしょう。

ただ、それでよいのか、君は?それで満足できるのか、君は?と自分で自分の胸に問うことが、スポーツの意味、スポーツのすばらしさを考える上で大事な問いになるだろうと思います。

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