年長児が最初に覚えた俳句は、一茶の「かたつぶり そろそろ登れ 富士の山」です。
かたつむり(昔の表記はかたつぶり)を見つめる作者のまなざしに思いを馳せてください。
この句が今に残るのは、共感できる人が多いからだと思いますが、これから先もそうあってほしいと願います。
この俳句の「そろそろ」は「ゆっくりと」を意味します。
かりに「いそいで」と言い換えるとどうなるでしょうか。
また、「かたつぶり」を「子どもたち」、あるいは「わがむすこ」、「わがむすめ」と言い換えるなら・・・。
一茶が「かたつぶり・・・」で表した「まなざし」で子どもたちを温かく見守れば、子どもたちはどこまでも本来の力を発揮するでしょう。
「そろそろ」を「もうそろそろ」(=いい加減に早く)の意味で理解したら、この俳句の味わいはぶちこわしです。
富士山は高い目標ととらえることもできます。
一茶がかたつむりをどこかから連れてきて、富士山のふもとに置いたのではない、という点が重要です。
(本当は富士山、あるいはどこかの山かどうかはわかりませんが、かりにそうだとして)たまたま一茶がその山道のどこかで山頂に向かってかたつむりが進む姿を見つけた、というシナリオにポイントがあります。
すなわち、まるで自分で決めた高い目標に向かって黙々と努力を続ける人間の姿をそこに見出しはっとさせられた。このように受け取ることができるでしょう。
かたつむり(=子ども)を富士山(=高い目標)のふもとに無理やり連れてきたのでは、この俳句の味わいは成立しない、という点が教育の立場から見ると大事なポイントだと思います。
親として子どもに(自分の)夢を託すことはあるかもしれませんが、それは横に置き、わが子が「よしやるぞ」と決めた目標に向かって一歩一歩歩む姿を見て、「そろそろ登れ」と心の中で応援できるなら、それは素晴らしいことだと思います。
追伸
西洋の古い言葉に「ゆっくり急げ」(Festina lente)というのがあります。古代ローマのアウグストゥスの座右の銘として知られます(このことわざは西洋社会では人口に膾炙しています)。
「ゆっくりと」は「そろそろ」、「急げ」は「登れ」に対応している(=どちらも目標に向かって動け)と考えると、一茶の句と西洋の古い言葉との間に橋がかかった気がして面白いと思います。