素読と書いて「そどく」と読みます。
日本の伝統的な学びを支える方法の一つでした。
評論家の小林秀雄が素読の大切さを力説しています。
素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだというが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。
『論語』の言葉、たとえば「かみをおかすものをこのむものはすくなし」を耳だけで聞いていると、「かみ」は「神」?と勘違いすることも多々ありますが、意味もわからずにただひたすら唱えているだけでよいというのが小林氏の意見であり、それは正しいと思います。意味を教える弊害を彼は語っていますが、今の時代の空気にはなじまない意見に思えます。なぜなら、いかに時間をかけずに(つまり効率的に)意味を大量にインプットするか、その効率のよさこそすぐれた教育の証だとみなす空気が支配的であると感じられるからです。
しかし、実際はそうではない。小林氏の指摘の示唆するのはそのことです。本園保護者なら、年長児の俳句の取り組みが上でいう素読教育の一種だといえば、イメージがつかみやすいと思います。
上の引用文は数学者岡潔氏との対談に見られるものですが、岡潔氏は著作の中で次のように述べています。
「すべて成熟は早すぎるより遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原理だと思う。」(岡潔『春宵十話』より)
早ければ早いほどよい、遅れてはいけない、という価値観が支配的な現代社会において、なかなか理解されがたいメッセージですが、私は真理を含んでいると思います。
親として、わが子の才能の開花ほどうれしいものはありませんが、必要以上に「あれができる、これができる」、言い換えるなら、(他者と比較したうえで)「あれができない」、「これができない」という視点を持ち過ぎないことが大事だというふうに、上の引用文は応用可能だと思われます。
じっさい岡潔氏は小林秀雄との対談の中で、次のように喝破しています。二か所引用します。
岡潔:人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむつかしい。 (小林秀雄・岡潔対談『人間の建設』より)
「好き」を手掛かりに学びを深める道が本来の道である、という趣旨の言葉です。
「私は義務教育は何をおいても、同級生を友だちと思えるように教えてほしい。同級生を敵だと思うことが醜い生存競争であり、どんなに悪いことであるかということ、いったん、そういう癖をつけたら直せないということを見落していると思います。」(岡潔『人間の建設』)
日本の教育を考える上で、この二つ目の指摘がとくに重要です。
競争の弊害は、かかわるすべての人間に劣等感を与える点です。
現代日本社会で起きているほとんどの問題は、心の奥底に劣等感をいだいたままの人間の虚勢がもたらす弊害にほかなりません。
子ども時代の好奇心を手掛かりに学びの世界を深めていく道と、競争原理に組み込まれた形での学びは似て非なるものです。
この問題は、文科省に改革を促すことは不可能で、各家庭で自衛するのがベストです。