本園の先生は優しいとよくいわれます。「ぜったい怒らはらへん」というお声もいただきます。たしかに「怒る」ことはありません。自分の感情にまかせて子どもに接することは教育ではないからです。しかし、本園の先生は優しいだけではなく、芯に厳しさも兼ね備えています。それでこそ教育だと私たちは考えています。

子どもたちにとって、日頃優しい先生に、ここぞというときに叱られるとき、その言葉に重みとありがたみを感じるものです。

昨日の保育日誌から一例を挙げましょう。

年長クラスでは、昨日合同で体操遊びに取り組みました。両クラスの間の扉を開け放ち、踏水会で習った様々なポーズで端から端まで移動することに挑戦していました。

自ずと白熱した競争になります。皆の勢いもどんどん増していきます。両クラスとも元気いっぱい充実した取り組みができたのですが、途中でちょっとしたハプニングがありました。

上靴が脱げたといって「僕はやらへん」とむくれる子が現れたのでした。先日「男はな」と友だちを励ましたKちゃんです。男の子の常、一度へそを曲げるとなかなか元に戻りません。

さて、担任の Sae 先生はそのとき何と言って彼が再び取り組めるように促したでしょうか^^

「先生はKちゃんがやらなくてもかまわない。でも、Kちゃんはそれでいいの?」

この言葉でKちゃんの心に火がついて、Kちゃんは再び力を込めてがんばりました。

こういうとき、先生としてどういう言葉をかけることができるか?重要ですね。「みんなやっているから、あなたもちゃんとやりなさい」という指示が一般的かもしれません。

これだとそのままの命令文で効果が薄いものです。命令文を駆使すると、肝心なときに言葉の強弱でしか言葉の重みを調整することができないので、効き目が薄くなっていくわけです。

やはりポイントは言葉の「中身」です。

私は上の先生の台詞は自分の本音を隠し、問題の本質に光を当てている点で効果的だと思います。がんばってほしいのは先生の本音であっても、「わたしのためにがんばって」という言い方は子どもにとっても、本能的に「それは違う」と直感するものでしょう。

中身をどう工夫するかについては、日頃から自分が子どもになってあれこれ想像することが大事です。自分が子どもであれば大人に何をどういわれたいかをよく考えることがコツです。

お山の先生はたしかに怒ることはありません。しかし、怖いわけでも甘いわけでもなく、ただ、人間として子どもたちを愛し、一人一人の喜怒哀楽をわがことのように受け止める先生がそこにいるだけです。どの先生も、子どもたちの心の成長を支えたいといつも願っている、このことは確かにそうだと私は言えるように思います。

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