幼児教育の本当の大事さは10年、20年先にならないと評価できないと思います。それだけに大人であるわれわれは、自分の体験に照らし、おそらくこれはこうなのだろう、とか、あれはああしないといけないんじゃないか、という具合に本来の教育について試行錯誤を重ねます。

私は幼児教育だけでなく、小学校以上の学校教育についても、「人間らしく学び成長する」ということを大事なテーマとして考えています。

2年前の保護者会で、私は「子どもは大人の父である」というフレーズを紹介しながら、大人の心(責任感、勇気等)をもった大人が、子どもの中にある「大人」の精神を正しく導く、というお話をしました。

それは今も同じ考えですが、今日は久々に司馬遼太郎氏と宮崎駿氏の対談を読み、目を奪われました。司馬さんの言葉を引用します。

「子どもは大人の父だ」と英国の作家の言葉があるそうですが、要するに子どもの心を持たない大人はつまらない人です。たいていちゃんと仕事をしている人は、皆、子どもの心を持っています。映画館で大人が喜んでいるのは、本人も普遍的な子どもとして喜んでいるのです。だから、たとえ顔は干からびても、子どもの心を持っているというのでなければ、その人は信用できませんね。その人のイマジネーションも信頼できませんが、倫理観も信頼できないということではないでしょうか。

子どもは周囲の大人次第でどのようにでも育ちます。冷静に観察すれば、子どもにも大人顔負けな邪悪さが潜んでいますし、大人が頭を下げずにいられない崇高な気持ちも持っています。どちらを強調し、伸ばすのか。子どもに責任があると言うことはできません。

大人も子どもも同じ人間であり、違うのは経験と言葉の運用能力です。大人はその経験を盾にして、また言葉の力を利用して子どもをコントロールしがちです。

私が思うのは、司馬さんの言うように、大人として子どもの心を持つべきことは当然であるということで(でないと機械と変わらない)、その前提となるのは、大人が子どもの手本となるだけの「大人らしさ」をわきまえているということです。

その限り、子どもにはあれこれ口やかましく言わなくても子どもは親のように育ちます。

鍵を握るのは大人自身です。

私たちは今、大変な時代を生きています。しかし、大人が人間として目の前の困難にくじけず、逃げることをせず、本来の意味での「大人らしさ」を発揮するなら、それが何よりの子どもへのメッセージとなるように思います。

子どもは真似が上手です。身近にいる大人の真似をします。子どもはまるで鏡のようです。子どもの前に立つとき、心が洗われる思いとともに、厳粛な気持ちにもなります。少なくとも、私が日頃子どもに話す言葉は、自分で自分に言い聞かす言葉でもあります。「やればできる。あきらめるな」等。

このエントリーも保護者だけでなく、自分への言葉として書きました。

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