公開日 : 2010年8月5日 / 更新日 : 2023年3月20日
小さなまる
朝のお迎えの途中でした。
「先生、あんなあ、マコちゃんのお母さん、マコちゃんが『お母ちゃん!」いうて呼ばはっても、もう、返事しやはらへんのやな。ぼくら、『お母ちゃん』て呼んだら、『なんえ?』て言うてくれはるわ』
昨夜遅くお母さんを亡くしたマコちゃんのことは、子どもたちにとって大変な衝撃だったのです。「ぼく、マコちゃん遊んだるねん。お母ちゃん、遊んだり言うてはった」
そういったのは、滋(しげ)ちゃんです。 「そうね、みんなで元気づけて上げましょうね」
孝子先生も、うつむき加減のみんなを励ますように、少し声に張りを持たせて言いました。でも、今朝のみんなには余り効果はなかったようです。「マコちゃん、泣いてよらへんかったんやて。ぼくやったら、わあわあなくわ」
「ほんまは悲しいんやな。がまんしてよるんやな」
いつもなら、虫を追っ掛けて道草を食う子ども、低い橋の下をくぐって、蜘蛛の巣だらけになって出てくる子ども、そんな子どもたちが静かに会話を交わしながら、まるで分別臭い顔つきで歩いているのです。
子どもたちの意識の底には、四才のマコちゃんがお母さんを失ったことへの同情の気持ちが大きくはたらいていることも事実です。しかし、またべつの思いも、今朝の子どもたちの足取りを重くしているのです。
おじいちゃんやおばあちゃんの死には出会ったことのある子どもたちも、まだ誰もお母さんの死には遭遇していません。
子どもたちの頭には、お母ちゃんはぼくが大人になって、お母ちゃんがおばあちゃんになってから死ぬものと思って、『お母ちゃんの死』なんて、考えても見なかったことだったのです。それが身近も身近、毎日幼稚園へ通っているお友達の、マコちゃんのお母さんが亡くなった!
そこで初めて、子どもたちはそれぞれ自分のお母さんのことを思ったのです。「ぼくのお母ちゃんは元気や。今朝かて、ぼくのご飯炊いてくれはった」
いつもと変わらないお母さんの姿にホッとすると同時に、「もしも、ぼくのお母ちゃんが、マコちゃんのお母さんみたいにならはったら、どうしよう」
子どもたちは、複雑な思いをひとりひとり抱きながら、葬列のように粛々と幼稚園へ向かったのです。
中一日おいて、マコちゃんが、朝、みんなの集まる場所へやってきました。「あら、もう幼稚園行ってもいいの?」
孝子先生が、驚いたようにマコちゃんの顔を覗きました。「ううん。ちょっとな、みんなの顔が見たかっただけや」
そういったかと思うと、露地の奥へパタパタと駆けだしていきましたが、しばらくして引き返してきました。「あんなあ、お母ちゃん、こんなにち小いちょうならはってん」
と、手で小さなまるを拵(こしら)えました。子どもたちは黙ってそのまるを見ていました。一番小さくて、お骨になった意味の分からない明ちゃんは、不思議そうな顔をしていました。でも、いつもみたいに、「何でやの、何でやの?」
と、うるさくは聞きませんでした。
マコちゃんは、先生やお友達にひとり取り巻かれて、面はゆい様子でしたが、少し嬉しそうな顔になると、「先生、ぼくなあ、新しいお母ちゃんがでけたんやで」
「えっ?」
驚く先生を見上げていたマコちゃんが、やがてポツリといいました。「姉(ねえ)ちゃんが、お母ちゃんになったげる、言わはったんや」
「あら、そうなの、それはよかったわね」
孝子先生も、本当に良かったと思いました。
マコちゃんには、かなり年の離れたお姉さんが一人います。病気がちだったお母さんに代わって、お所帯から家の中のことは、ほとんどのことをこなしているお姉さんです。「あのお姉さんなら、きっといいお母さん代わりになって下さるだろう」
と孝子先生は、自分のことのように安心したのでした。それは、ある日のマコちゃんとお姉さんとの、微笑ましい触れ合いの情景を思い起こしたからでした。
一センチ丸の穴
マコちゃんのお母さんが亡くなられる、五日前の朝のことでした。
マコちゃんには、何となくお母さんのことが気掛かりだったためかも知れません、非常に出渋ったことがありました。
夜半から降り続いたこぬか雨で出来た水たまりに、子どもたちのレインコートや雨靴のとりどりの色がつぎつぎに映っては消え、消えては映りました。
孝子先生が子どもたちを連れて、マコちゃんの家の前までくると、「あ、先生、マコちゃん、ごててはるわ」
と幹夫ちゃんが、家の中を窺(うかが)うように小声で言いました。「本当ね、どうしたんでしょう」
子どもたちも、心配そうに聞き耳を立てました。「いや言うたらいやや! そんなん、持って行かへん」
マコちゃんのかすれた高い声。「こんなぐらいやったら、誰も笑わはらへんえ。マコちゃん好(え)え子やし持って行って。マコちゃんがぐずぐず言うたら、お母ちゃんが心配しやはるえ。たのむし、な」
奥に寝ているお母さんを気づかっての、お姉さんの物静かな声。「どうされましたの?」
孝子先生が、二人の前に顔を出しました。「お外へ出た途端にこけまして、傘に穴をあけたもんですから」
孝子先生は、その傘を拡げて見ました。頂上に近く、一センチ丸の穴があいていました。「みんな、笑わないわね。仕方ないんですもの」
孝子先生は、うしろを振り返って言いました。「笑わへん、笑わへん、笑うたらアホや」と、子どもたちは合唱するように言いました。「ほーら、ね、いいでしょ?」
マコちゃんは黙っていました。お姉さんは気の毒そうに、「先生やお友達に迷惑かけるえ。がまんして行って」
それでも、「いやっ!」
さっきよりも、もっと強いマコちゃんの声。
そのとき、奥の方から、「マコちゃん・・・」
弱々しいお母さんの声が聞こえてくると、マコちゃんもドキッとした顔つきになりました。「そやそや、マコちゃん、ちょっと待っててや」
お姉さんは何を思いついたのかそういうと、いちど台所へ消えましたが、すぐに出てきて、マコちゃんのよりはやや大きめの、もう一本の傘を持ってきました。「これ、さして行き、これやったらええわ」
と拡げたその傘には、さっきの傘より一層大きな穴が開いていました。子どもたちは、思わずわっと笑いました。お姉さんは、恥ずかしそうにその傘を閉じました。
孝子先生はわざと声を弾ませると、「マコちゃん、ほら、見てごらん。先生の傘、白くて落下傘みたいよ。マコちゃんの傘と先生のと取り替えっこしてみようか?ね、いいでしょ」
それまで玄関先に腰を下ろしたままで、いっかな動く気配のなかったマコちゃんは、静かにスッと立つと、「これ、持って行く」
マコちゃんの手には、先ほど渋っていた傘がしっかりと握られていました。
家を出て、山の道へ差しかかったとき、マコちゃんが出し抜けに、「なあ先生、もう一つの傘、大きな穴があいてたなあ。ねえちゃん、赤うなってよったなあ」
と眼を細くして笑いました。「やさしいお姉さんよ。さっきだって、一辺も叱られなかったでしょ。もうお姉さんを困らせちゃだめよ」
「うん」
マコちゃんの傘からは、穴を伝わってきた雨がポトポトと、しずくとなって垂れていました。「しずくがな、でぼちんに当たって鼻の横っちょ通りよんねん。こそぼいこそぼい」
孝子先生が白い傘を差し出して「さあ、こんどこそ、替えっ子しましょうね」
マコちゃんがみんなの前を行きます。先生の白い傘さして。胸を張って。
本当に、パラシュートにぶら下がってるみたいで。
お友達に、「ええな、ええな」言われて。
雨靴を、ピチャピチャ踏みならしながら。
姉ちゃんは仏さんといっしょ
マコちゃんのお母さんが亡くなって一週間たった七夕さまのおゆうぎ会の日の朝でした。マコちゃんのお姉さんは、お母さん方の中でも二・三番という早さで幼稚園に姿を表しました。「今日はまだ何かとお忙しくって、お出にくかったのと違いますか?」
お悔やみとともに私がそう聞きますと、マコちゃんのお姉さんは、軽く会釈をして、「ええ、でも母の遺志でもございますので。去年は恥ずかしがって、七夕様のおゆうぎ会に出れませんでしたものですから、今年は何としてでもマコちゃんのおゆうぎ踊るの、見に行ってやりたいと頑張っていたのですが」
お姉さんは、新たな悲しみがこみ上げてきたのか、嗚咽(おえつ)を押し殺している風でした。その様子を横で見ていたマコちゃんは、出し抜けに、「あんなあ先生、ねえちゃん、今朝なあ、寝ぼけしよってん、ぼく起こしたったんや」
と、その場の気分を紛らすかのように言いました。「お姉さん、お忙しいから疲れてはるのやろ?」
「ぼくかて、忙しかったんやで」
と、小さな肩をそびやかせました。「ヘーえ、マコちゃんかて、忙しい事あるのん、何したの?」
「使いや。あっち行ったりこっち行ったり、しんどいこっちゃ」
「お使いが出来るの、それは、えらいえらい」
「それからなあ、ぼく、毎朝お墓のお母ちゃんに、ご飯とお水も上げんねん」
「お墓やないやろ、お仏壇やろ?」
「お墓や!」
「お家にお墓あるの?」
「そうや、二つもあるのやで」
「へーえ、二つも?二つて、お母さんのと、もう一つは誰の?」
「それはちょっと、ナイショやね。言えませんなあ」
と、こましゃくれた口の聞きようをしました。「そうか、まあいいや。でもお母さん、マコちゃんがご飯やお水上げたら、喜ばはるやろ。」
「うん、ぼくな、お母ちゃんとお話するねん。きのうはな、豆腐買いにいって、石にけつまづいたさかい、鍋ひっくり返したんや、言うたってん」
「怒らはったやろ?」
「仏さんやもん、怒らはるかいな」
マコちゃんは、涼しい顔で言いました。「その代わり、お姉さんには怒られたやろ」
「ちょっとも、怒らはらへん。マコちゃんには無理やったな、ごめんやで言うて、自分でまた買いにいかはったがな」
「怒らはらへんの。そんならお姉さんも、仏さんと一緒やな」
お姉さんがくすっと笑ったのをきっかけに、マコちゃんは、「遊んでこ」
とブランコの方へ走って行きました。
マコちゃんが、このように何でも気さくにお話が出来るなどとは、去年の今ごろは誰も想像できないことでした。
「母は、亡くなります一(ひ)と月ほど前に、あの頃はしんどかったけれど、マコちゃんに心置きのう付き合ってやれて、ほんまに良かったと、大変喜んでおりました。それに、あの時の先生の励ましがなかったら、マコちゃんも、私も、いつまでもあかんたれの母子でいたやろな言うて、とても感謝しておりました。」
お姉さんはそういって、静かに頭を下げました。
細かくうなずきながら、私の脳裏には一年前のお母さんとマコちゃんの姿が、まざまざと蘇ってきました。
あかんたれ
幼稚園の山には初夏のころになると、マツゼミがなきだします。シャンシャンと高い調子のマツゼミの声が、山の木々に谺(こだま)しはじめた頃のある朝でした。
入園当初からものは一言もいわず、楽しいのか、面白くないのか、まったく無表情で押し黙ったままお迎えの列に加わっていたマコちゃんでしたが、五月の半ばごろから急に家を出渋って、送り迎えの孝子先生を、かなり手こずらせるようになりました。
そのころのある朝、孝子先生のグループが到着しましたが、今朝はその中にマコちゃんの姿が見えません。「マコちゃん、今日はお休みですか?」
私が、孝子先生に尋ねますと、「残念ですけれど、多分、そうなるでしょうね。いろいろ言ったんですけど、どうしても駄々をこねまして、今日はお手上げでした」
ということです。
お始まりの前に、私が園庭で子どもたちと遊んでいるとき、ふと石段を上がって来る母子の姿が目にとまりました。「マコちゃん、よう来たね」
大声で呼びかけると、私は石段を駆け下りてマコちゃんの傍へ近寄りました。頭を撫でてやろうとしたのですが、マコちゃんは、身を固くしてお母さんの後ろへ隠れてしまいました。「この子は、年がいってから出けましたんで、みんながチヤホヤ甘やかしたもんでっさかい、あかんたれになってしもうて、今朝もついついここまでついてきてしまいました。ほんまにご迷惑お掛けしてすみません」
そういうお母さんの顔色は悪く、どことなくやつれて見えました。「初め、かしこう行っていたのに、何で今頃になってから出渋りだしたんでっしゃろなあ?」
お母さんは独り言のように言って、首を傾(かし)げました。「初めの頃、かしこう行っていたと思ってられますが、本当は、マコちゃんは、がまんして、無理してひとりで来ておられたんとちがいますか?」
「そうでっしゃろか?」
「それが、この頃になって、すこし気持ちに余裕が出てこられたので、そこで初めて本来の甘えと我(が)が、少しずつ出せるようになってきたんでしょうね」
「そう言われましたら、そうどすなあ。マコちゃんは我が強うて、いったんごてだしたら、家中が寄ってもてこに合いませんで、ほとほと手を焼いてるようなことです。どうしたら直るんやろいうて、みんなで困ってますねん」
マコちゃんのお家での、マコちゃんを中にして、家中みんなが寄ってたかって可愛がって、家中みんなで寄ってたかって困ってられる様子が目に浮かぶようです。
私はしばらく間をおいてから、「お宅に手はおありですか?」
私の質問の意を図りかねて、「はあ、姉ちゃんがおりますさかい、手はありますけど」
と怪訝(けげん)そうに言いました。「そうですか。それじゃあ、しばらくお母さんに続けて来てみていただいたら、と思うんですが、いかがでしょう」
「はあ、やっぱり、来(こ)なあきませんか?」
「幼稚園ではご自分ひとりだと、お家のような我が出せないところを、お母さんがお家の延長というか、お家と幼稚園との橋渡しの形で幼稚園にいていただく。すると、お母さんが身近におられる安心感から、今、幼稚園で出かかっている我が、お友達との交流を通して、自然な形で伸び始めると思うんです」
「今よりも我が伸びて、宜しいんでっしゃろか?」
「お母さんの困っておられるのは、お家のなかでのわがままな我なんです。我にも良い我と悪い我とがあるんです」
「・・・?」
「良い我(が)というのは、いい意味での自己主張とでもいいますか、自分はこう思う、人が何といおうとこうでないといけない。人は目を瞑(つぶ)っても、正しくないことは許せない、そういった正義の気持ちも、良い我のひとつですね。ですから、どちらかというと、悪い我は自分のため、良い我は人のためを考える我ですね」
「そんな良い我が、マコちゃんに出きてきますやろか?」
「かならず出るようになります。そのためには、悪い我を追い払うために、先ずお友達を作ることが大事です。お友達に、遊びを通して悪い我退治をしてもらうんです。子どもは遠慮がありませんから、わがままな我を通そうとしたら、こてんぱんにやっつけてくれます。そこで初めて集団のなかでは、社会のなかでは、悪い我は通らないことを教えられます。そのあとで、しだいしだいに良い我が育ちはじめるのです。ですから、お友達が先生、といってもいいかもしれませんね」
「私がずっとついてきたら、マコちゃんにお友達ができますやろか?」
「ええ、出来るようになります。子どもはもともと友だちが欲しいものなんですよ。でも、先生が無理に結び付けようとしても、成功しません。時期がくれば必ず自分から見つけて、自分で見つけ得た喜びを持つようになります。そのときのために、お母さんにいていただくと、安心して、少しずつお友達の方へ接近していくと思うんです」
「ほんまですなあ。考えてみましたら、マコちゃんは家の中ばっかしで、今まで一度もご近所のお子さんと、遊ばしたことありませんなあ。姉ちゃんがいつも相手してましたさかい、ほんまは、同い年のお子さんと、遊びたかったんですなあ。今まで大事なことが抜けてたんどすなあ」
「ですから、急がず、焦らず、先ずはお友達づくりが先決です。そのためにご協力いただくわけですが、ただ一つ、お母さんは、お部屋の中までこられるのでなく、マコちゃんの見える外にいてほしいんです。お母さんは園にきておられても、お家と幼稚園は違うんだという節度は、マコちゃんにも持っていただきたいのです」
「よう、わかりました。元をいうたら私らの蒔いた種ですよって。大体うちでも、幼稚園ご厄介になる前から言うてましたんや。内弁慶で外へ出たら気のあかんマコちゃんが、ひとりで行けるやろか、誰ぞついて行かなあかんのと違うやろか、いいましてな。それが、ひとりでかしこう行くわ言うて、不思議がっていたくらいですよって、どうせ元々ですわ」
そういってお母さんは、マコちゃんを振り返ると、「マコちゃん、お母ちゃんなあ、これからは毎日来たげるえ。お終いまでいてて上げるしな、心配せんかてええのやで」
といいながら、マコちゃんの頭を何べんも何べんも撫でていました。「ほんとか?」
とうかがうような臆病な眼差しでお母さんを見上げたとき、初めてマコちゃんの表情らしい表情を見た気がしました。
ひとりの友達
この日から、お母さんは毎日マコちゃんといっしょに幼稚園へ通うようになりました。マコちゃんは、お母さんに来てもらうようになったからといって、すぐにはお友達の方へ気持ちを向けるということはしませんでした。
もっぱら、お母さんがいつの間にか黙って帰ってしまわないかと、警戒心が先に立つようで、ほとんど部屋の入り口付近にいて、お母さんのいる外ばかり眺めていました。
それでも耳だけは、先生の話、お友達の会話の方へ向ける余裕が、少しは出て来るようになってきました。
やがて、お母さんは絶対に帰らないことが分かって、しだいに気持ちも安定してきたのか、そのうちに、部屋の入り口のガラス戸のところから外を覗く回数も減ってきました。
でも、例えば七夕さまのおゆうぎ会のためのおゆうぎの練習が始まるなど、何か今までしたことのない新しいことにぶっつかると不安になって、入り口の方へ矢のように飛んできて、お母さんの顔を求めました。
お母さんは、いつでも応じられるように、たえず入り口の方へ視線を送っていて、マコちゃんと目が合うと、にっこりと微笑んでいました。その笑顔に元気を取り戻して、自分の席へ戻って行くといった状態が、しばらくは繰り返されていました。
お母さんが通いだされて一と月ほど経った六月も半ば頃のことです。
家へ帰ってきたマコちゃんが、ある日一人の子どもの名前を口にしました。お母さんは毎日来ているので、その子のことはよく知っていました。
とてもおとなしい、まだ幼さの充分に残っている子どもです。修ちゃんといいました。
お母さんは、マコちゃんの人生にとって初めて出来たお友達が、もっと元気のいい溌剌とした男の子らしい子どもであるといいな、と一瞬思いました。マコちゃんをぐいぐいと引っ張って欲しかったからです。
でも、「そんな子だったらマコちゃんは全くついていけないだろうな」
と思いました。「えらいもんやな。マコちゃんは、やっぱりマコちゃんに合うた子を選ぶんやな」
とも思いました。
その後はお家でも、修ちゃんと遊んだことが、夕食の食卓の話題を独占するようになりました。そんな時のマコちゃんの勢い込んだ話ぶりは、実に生き生きとして見えました。もうこの頃になるとお母さんの方も要領を心得て、雨の日は軒下で、晴れた日は木の陰などで、時には編物をしながら、時には本や週刊誌を読みながら、当然の日課のように、せっせと一日も欠かさず出勤されました。「どうです?お母さんにも、出席カードをお出ししましょうか」
「へえ、おくれやすな。今月は皆勤ですねん。ゴールド、貼っておくれやす」と笑い合ったりしました。
こうしてお母さんの弛(たゆ)まぬ努力のお陰で、マコちゃんはお母さんの愛情をバックにして、だんだんと、明るく元気な子どもになってきました。
いつも泣きだしそうに眉の間に寄せていた皺もとれて、お母さんがいてもお母さんのそばへ行こうとはせず、安心し切った顔つきで、日増しに修ちゃんとの行動半径を拡げていったのです。
三人組のお手柄
そのころ、私はある日のお昼前に、石段の脇に作られたコンクリートの斜面に砂を流して、その上を滑り台のように滑っている健ちゃんと滋ちゃんと徹ちゃんの姿を見つけて傍へ近寄りました。
三人とも送り迎えは孝子先生グループで、家も比較的近所でよくいっしょに遊んでいるということです。三人とも、マコちゃんよりは一つ年上で、中でも健ちゃんは男気(おとこぎ)のある子どもです。「面白いことして遊んでるね」
「うん、先生もすべって見、おもろいで」
「有り難う。それよりちょっと頼みがあるんやけど、聞いてくれる?」
「ええよ」
三人はお遊びをやめると、私といっしょに石段の横の草原に足を投げ出しました。「あんねえ、一つお願いがあるんや」
「何や、言うてみ」
「マコちゃんのことやけどな、みんなはお家も近いし、毎日いっしょに来てるやろ」
「うん、誘(さそ)たってるで」
「そうなんや、みんなが上手に連れてきてくれるんで、このごろマコちゃん、お母さんと手をつながんと、歩くのは、みんなといっしょやな」
「ふんそうや。よう知ってんな」
「孝子先生に聞くんやろ」
「そうや。そんでね。送り迎えの時だけやなしに、お家帰ってからも遊んで上げてくれへん?そしたら、もっと元気にならはる思うよ」
三人の、しばしの沈黙ののち、最初に口をきったのは、一番兄貴株の、健ちゃん。「よっしゃ、やったるわ」
「できる、できる」
なかでは一番小柄な滋ちゃんも、小首を振って頷いていました。「そうか、有り難う。」
「そやけどなあ、マコちゃん、あんまり外へ出て来よらへんで、おいで言うても出てきよるやろか?」
新たな心配に、徹ちゃんは困った様子です。「それをみんなで上手に言うて、あんばいようそとへ連れ出したげんのや。初めはマコちゃんの家へ遊びにいっても好えしね。そうしてる内に、マコちゃんだんだん慣れてきて、お外へ出るようにならはるやろ?」
「ふんふん、よっしゃ。やったる、やったる」
健ちゃんが胸を張って言いました。「じゃあ、頼んだよ」
私は、三人の肩を次々に叩いて立ち上がりました。
情があって世話好きな三人は、それからは小まめにマコちゃんの面倒を見てくれるようになりました。「マコちゃん、家やったら元気やわ。お姉さんでも叩きよんねん」
「きのうはマコちゃん、天神さんの森つれたってん、初めは暗いし怖いいうとったわ」
「きのうなあ、マコちゃんとこで、こんなに仰山(ぎょうさん)おやつくれはったんやで」
などと、昨日の出来事の報告も、折々思い出したようにしてくれました。
こうして、家へ帰ってからのお友達の協力も手伝って、マコちゃんは一歩一歩、内に籠もっていた心の陰りに明るさを見せ始めてきたのです。
あるときなどは、三人の子どもたちからこんな報告も受けました。「マコちゃん、小っちゃいのに強いで」
「何が?」
「相撲や。きのう児童公園連れてってぼくら相撲してたらな、その内にな、マコちゃんも『する』いい出しよったんや」
そこで相手に選ばれたのは、小柄な滋ちゃんでした。「ええ勝負しよったで、最後は負けてこけよったけど、泣きよらへんかったわ」
「そうや、ぼくら、ひゃっとしたな。泣きよったら、どうしょ思て」
「起きてきて、けろっとしてよったわ」
「えらいなあいうて、みんでほめたってん」
子どもたちの報告には、私もぞくぞくするほどの、嬉しさがこみ上げてきました。
どっこいしょ
梅雨時には珍しく、朝からカラッと晴れ上がった気持ちのよいお天気の日でした。
四、五日閉じ込められた子どもたちは、朝のお始まりの前のお遊び時間に、久しぶりにお相撲を取ろうと、来客と応対していた私を園庭まで引っ張っていきました。
私は、園庭の木陰に、木切れで早速大きな土俵の輪を描きました。それを取り巻く子どもたちは、てんでに強い力士の名前を早い者勝ちに取り合って、「ぼく、若の花やで」
「ぼくは、栃錦や」
と悦に入っております。
寛ちゃんなんかは、落ちている松葉を五、六本拾って、胸の両側に並べ、「ぼく、朝潮や」
と威張っています。「なんでそれが、朝潮なんやね」
英二ちゃんが、寛ちゃんの胸の松葉を指して聞きました。寛ちゃんは、「朝潮にはな、胸にこんなにごっつい毛が生えてんのやぞ。お前、知らんのんか」
と、澄まして言いました。
この頃では、家へ帰ってからだけでなく、幼稚園でもお遊び時間には近所の三人のお兄ちゃんたちが、ときどきマコちゃんを仲間に入れて遊んでくれていますが、今も土俵のぐるりに一緒になって腰を下ろしていました。
さらにマコちゃんの傍には、マコちゃんのクラスの修ちゃんも神酒徳利(おみきどっくり)のように、くっついて坐っています。「それじゃあ、つき組さん(年長児)のクラス対抗をする前に、今日は小さい組の人もいるようだから、小さい組さんの中で、したい人がいたらさしてあげよう」
私はそういって、ぐるりとあたりを見回しました。案の定、隣にいた滋ちゃんがマコちゃんを突ついています。「マコちゃん、やれ、こないだ、ぼくにかて勝ったことあるやん、小さい組同志やったらぜったい勝つて」
「そやかてえ」
といいながらも、本当は出たくもあるように見えました。しばらく考えていましたが、「修ちゃんとやったら、やる」
と言いだしました。「修ちゃん、やる?」
私の誘いに、修ちゃんは、やるともやらんとも意思表示のないまま、マコちゃんに手を引かれて土俵の真ん中へ出てきました。「よし、それでは、本日の一番初めの取り組みは、ひがーし、小っちゃい組さんのマコちゃん山、にーし、おさむちゃん川」
私の呼び出しの大声に、飛び上がるほどびっくりして顔を上げたのは、それまで腰掛け石で毛糸を編んでいた、マコちゃんのお母さんです。急ぎ足で近寄ってくると、子どもたちの頭越しに不思議な光景をみるように、じっと見入っていました。
勝敗に全く寡欲(かよく)な修ちゃんはかんたんにずるずると押し出されて、別に悔しそうな様子も見せませんでした。「マコちゃん、ほら見てみい。勝ったやんけ」
滋ちゃんが、わがことのように喜んでいます。お母さんは呆気にとられた様子です。
マコちゃんが、私の方を向いて言いました。「もっとしたい」
「ええっ?」
これには、私もびっくりしました。
滋ちゃんが、「ぼくとしよか、先生、かまへんな」
「そうやなあ、大きい組さんとやけど、マコちゃん、ええか?」
「うん、ええよ」
今度は、修ちゃんのように簡単にはいきませんでした。ふたりの力は拮抗(きっこう)していて、なかなか勝負はつきませんでした。というより、あまり手のない二人は押したり押し戻されたりして、「何してんねん、ダンスしてんのか」
と野次(やじ)が飛ぶほど、悠長なものでした。でも最後は滋ちゃんが足をかけますと、マコちゃんは仰向けになって倒れました。みんなは、ハッとしました。
だが、マコちゃんは、お爺さんが薪を背負うように、「どっこいしょ」
と声を掛けながら、きさくに立ち上がりました。
それからも、雨でも降らない限り、ほとんど毎日子どもたちの豆相撲は園庭の一角で繰り広げられました。
私はそれを機に、子どもたちに仕切りの仕方から、勝負の終わった後の挨拶まで正しい作法を教えてやりました。とともに、子どもたちにこなせる程度の、危なくない手もぼちぼち指導してみました。
次第に本式の相撲のようになっていくにつれ、マコちゃんの気持ちにも、人並みに男らしい遊びの中へ参加しているんだという、誇りのようなものが湧いてきたようです。それにマコちゃんは相撲が向いているのか、手の覚えも早く、大きい組の子どもとするようになっても、何回かに一回は、手を上手に使って勝つようになりました。
苦手なおゆうぎ
そんなわけでマコちゃんは、園でも相撲を取るようになってからは、見違えるように活発になってきて、クラスでも修ちゃんのほかに新しいお友達が少しずつ増えてくるようになりました。
ただ、おゆうぎだけは苦手のようで、マコちゃんが出ることになっている「子鹿のバンビ」の練習になっても、椅子に坐ったままで、その場を離れようとしませんでした。「見ているだけでもいいわ。したくなったら、お友達といっしょにやりましょうね」
担任の玲子先生も、焦らずにマコちゃんのやりたくなる気持ちの熟するのを待つことにしました。
六月も終わり頃のある日、不思議なことが起こりました。「子鹿のバンビに出るひと、お並びにいらっしゃい」
玲子先生が練習を待っている子どもたちの方へ声を掛けたときです。マコちゃんがスッと立ってトコトコと列の方へ並びにきたのです。
玲子先生は内心、「おやっ?」
と思いましたが、下手にほめて気持ちがぐらついてもと思い、黙っていました。「マコちゃん、出やはったわ」
女の子が、嬉しそうに声を立てました。
さて、練習が始まりました。坐ったままで、一度も前に出て練習をしたことのないマコちゃんが、若干の箇所を除いては、練習を積んできたほかのお友達と遜色のないほど、上手に踊りました。
そこで初めて、「マコちゃん、よくやったわねえ。見て覚えたのね。えらいわあ」
と玲子先生も、心から賛嘆の声を送りました。今まで一人だけ練習に参加していないマコちゃんのことはお友達も気になっていたので、一人の子どもがパチパチと拍手したのに続いて、拍手の輪はクラス全体に広がって行きました。
玲子先生は、練習を見るときのマコちゃんの集中力には、いつも感心していましたので、出てさえくれればな、とかねがね思っていたのですが、今日の結果を見て、この調子でいけば七夕さまの会にも出られるかも知れない、と期待に胸をふくらませる一方、マコちゃんのことだから、保護者のいっぱい見える前では無理かも知れない。
今日出来ただけでも大きな前進だし、無理やり出さねばと焦るより、マコちゃんの自然に任せよう。そのように心を固めていたのでした。
マコちゃんの独演会
七月に入って、お母さんも期待と不安の内に迎えた、七夕さまのおゆうぎ会当日です。前の日までは練習はよくできていたし、やる気さえあれば充分踊れたのですが、結局は、出る前にしり込みして舞台の袖まではきたものの、とうとう舞台には上がらずじまいでした。「惜しかったですね。もう一息というところまで来ていたんですが」
私が、会が済んでから、お母さんに慰め顔でいいますと、「おおきに、半分あきらめてましたさかい、どうもおへん。それより、来年は出る、いうてしっかりと約束してくれてますさかい、今から来年を楽しみにしてますねん」
「そうですね、マコちゃんはともかく初めての経験に弱いんですよね。舞台の傍まできて、雰囲気は今年つかまはったんですから、来年は大丈夫でしょう。それにあと一年でさらにさらに成長されますからね」
お母さんは嬉しそうにうなずいていましたが、何を思い出したのか、急にくつくつと笑いました。「おかしいんですえ。家では毎晩夕飯の済んだあと、みんなを集めて、マコちゃんが「子鹿のバンビ」を踊って見せてくれますねん。自分で歌、うとうて、間の伴奏も口三味線でいいましてな、それやのに、幼稚園ではお稽古に前へ出えへんて聞いて、姉ちゃんなんか『歯がゆいなあ』いうて、くやしがっていましたわ」
「そんなことがあったんですか。それじゃあお家の皆さんは、一足お先に、マコちゃんの七夕さま独演会を、毎日鑑賞してはったんですね」
「そうですがな、昨日なんか、『そんなに上手に出けてるんやから、明日は大丈夫、頑張りや』いいましたら、急に怖い顔して『いうたらあかん!』いうて怒りますのや。よっぽど気があかんのどすな」
そういいながらお母さんは、人ごとのように笑っていました。
それからも、お母さんはすっかり園に任せきった顔つきで、まじめに丹念に日参を続けていました。この間(かん)、初めてお母さんが園へ見えるようになってから、すでに二ケ月近くを経過しておりました。「この頃では、幼稚園が面白うなったんかして、朝でも早う行こ、早う行こいうて聞かしまへんのや」
お母さんは目を細めながら、マコちゃんの成長を喜んでいる風でした。
明日こそ!明日こそ!
私は、お母さんには、焦らず、ほちぼちとマコちゃんのペースを尊重していれば、必ず離れるときが来ますから、と励まし続けて来ておりましたし、お母さんも充分その気になっていただいてはいるものの、できるならば少しでも早くお母さんを開放して上げられたらいいな、そういう気持ちも一方においては働いておりました。
七月の第二土曜日の朝のことでした。その日は、いつも留守を守ってくれていたマコちゃんのお姉さんが、大阪の方へどうしても行かなければならない用事で、出掛けることになっていました。お迎えにいってお母さんがその準備に追われていることを知った孝子先生は、「どう、マコちゃん、お姉さんよそへお出かけで、お母さん今朝はお忙しいし、先生と先に行ってたげへん?」
「ほんまや、そうしてくれるとお母ちゃん助かるわ。お母ちゃん必ず後で行くしな。どうしてもあかんいうのやったら、無理して行ったげるけど」
するとマコちゃんは、あっさりといってのけました。「かまへんで、そのかわり、後で来(き)いや」
お母さんは、孝子先生と顔を見合わせると、舌を小さく出して肩をつぼめました。
山のふもとの病院との別れ道を左へ折れた山道を、近くの三人組と子犬のように戯れながら歩いていたマコちゃんが、くるりと踵(きびす)を返すと孝子先生のところへ走ってきました。「ぼく、ちょっとええこと考えてんのやけどな」
「あら、何でしょう?」
「当ててみ」
「そうねえ、今日お家へ帰ったら、お母さんよりも先に行けたからほめてもらおうと思ってる?」
「それが違うのやなあ。いうたろか、月曜からなあ、ぼく、ひとりで行こかて、今思たんやねん」
「まあ、そう!」
思いがけない発言でした。マコちゃんの口から、こんなにもさらりとこの言葉が出ようとは、何だか狐につままれたようです。「今日は、なんて好い日なんでしょう。お母さんより先にお家は出てくるし、あんなことはいってくれるし」
するとマコちゃんも、「それに、今日は土曜やし、天気はええし」
と調子を合わせて笑いました。
月曜日の朝、孝子先生は胸をわくわくさせながら、マコちゃんの家の前に立ちました。マコちゃんは、土曜日に言った言葉はまるでよそ事のように、当然の顔つきでお母さんと一緒に出てきました。
その日も山道に差しかかった頃、またマコちゃんが孝子先生のところへ引き返してきました。「あんなあ、ぼく、ええこと考えてんね」
「何を?」
「お母ちゃん、からだ弱いやろ」
「そうね」
「そんで、ぼく、ごてたら、お母ちゃんかわいそうやろ」
「そうよ。ほんとにそうよ」
「そやさかいな、ぼく、あしたこそ、ひとりで行こ思てんねん」
孝子先生の胸には、また新たな喜びがこみ上げてきました。明日になって本当でなくともいい。マコちゃんは一人で行くことを自分の中で、とても大事なこととして自覚し始めたのだから。
その翌朝、またしても期待は外れました。孝子先生に対する言い訳めいた表情すら見せず、またしても当然のようにお母さんを促しました。
しかし、孝子先生には、「明日こそ!明日こそ!」
のマコちゃんの気持ちが、痛いほど伝わってくるのでした。
幼稚園に近づいて石段の道に差しかかったとき、幼稚園の園舎の近くに住むお婆さんが病院へ行くために上から杖をついて、ゆっくりゆっくり下りて来ました。その人が通りすぎてから健ちゃんが孝子先生に、「あの人、もう、年寄りやろ?」
「そう、おばあちゃんね」
「そんならつぎは、死ぬんやな?」
孝子先生は、戸惑いを感じて、一瞬言葉を失っていました。
するとそのときです。「そんなこと言うたらあかんわい。言うたらあかんわい。ばかもん、ばかもん!」
とマコちゃんが激しく健ちゃんを責めたてました。やがて、マコちゃんのわあわあと高い泣き声がみんなを圧しました。「お母ちゃん、からだ弱いし、ぼく、ごてたらかわいそうやろ」
といっていた昨日の言葉と、「つぎは死ぬんやな。」
と言った健ちゃんの言葉とが、マコちゃんの頭の中で重なり合ったのかも知れません。いずれにしても、マコちゃんは、お母さんのからだのことを真剣に心配している様子でした。
三度目の正直
そして次の日、その日は一学期の終了式の五日前。三度目の正直の言葉通りのことが起こりました。
私が私のグループの子どもたちを連れて、石段を途中まで上がってきますと、「先生、こっちや、こっちや」
と呼ぶ声がします。声のする方を見ますと、私達のグループより先に到着していたマコちゃんが、例の三人組と段々の横手の草原でバッタを追いかけていました。私は反射的に周囲を見回してお母さんの姿を求めました。するとマコちゃん、「ひとりや、一人で来たんや。探して見。どこ探したって、お母ちゃんいやあらへんわ」
ひときわ晴れやかな顔で、得意満面。胸を張って言いました。「来たな!来たな!とうとう一人で来たな!」
私は、マコちゃんの眼の中へ、ひと言ひと言、刻み込むように言いました。
マコちゃんも、瞬きもせず、私の眼をしっかりと見つめていましたが、やがて「うん」
と、大きくこっくりをしました。「お母ちゃん、喜んではったやろ?」
「帰ったらな、晩に赤めし(赤飯)炊いたる、いうてはったわ」
思えば長い月日でした。お母さんがお赤飯で祝おうとされる気持ちは、分かりすぎるほど、よく分かりました。「先生かておいで、赤めし食べさしたるし、来いな」
「ありがとう。そやけどな、先生はどんな御馳走もらうより、マコちゃんがひとりでくるようになったし、それだけで嬉しうて、お腹いっぱいや」
「ほんまか、そんならな、ぼく明日からもずっとひとりで来るで。うそ違う。今日かて、来るいうたら来たやろ?」
「そうや。よう、分かってる」
「先生、ぼく、ぎりぎっちょんするわ」
「よし」
二人は、満面に笑みを浮かべながら、指と指とを絡(から)ませしっかりと振り合いました。
「あめあめふれふれ」不出場
夏休みの心の緩みから、またしても逆戻りするのではないかとの心配も、まったくの杞憂(きゆう)にすぎなかったことは、二学期からの危なげのない、明るい登園状態にはっきりと表れていました。
どうやら、夏休み中も三人組のお兄ちゃんたちとは、毎日のように家の近くの原っぱや、白川や、天神の森や、児童公園などで遊んで、それが幼稚園生活の続きの役目を果したことも、手伝っていたようでした。
初めて二学期のマコちゃんを見る人があったら、これがまるまる二月間、お母さんにご苦労を掛けた子どもとは、恐らく想像もつかないでしょう。
そんな頃、そろそろ運動会も近くなって、保護者の競技の参加希望種目を問う回答用紙が、各家庭に配られました。
マコちゃんが私に渡した回答用紙には、一番出やすい母子競技の、
「あめあめふれふれ」
にも不出場の印がついていました。あれだけマコちゃんに付き合い、あれだけマコちゃんの成長を喜んでおられたお母さんが、不出場とは、合点が行かないものですから、「マコちゃんが、いやや言うたんと違うか?」
「なにを?」
「お母さんといっしょに走るの」
マコちゃんは、とんでもないというふうに、眉毛を吊り上げて抗議しました。「違うでえ、お母ちゃんなあ、病気なんや」
「そうなの、それは悪かったね。それでずっと寝てはるの?」
「寝たり、起きたりや」
「どこがお悪いの?」
「知らん、知らんけど、悪いんや」
マコちゃんは、何度も目を瞬(しばたた)かせました。「いつ頃から?」
「大分前や。お医者さん、ちょいちょい来てはったわ」
「大分前て、マコちゃんについて来てはった頃から?」
「知らんでえ」
マコちゃんは、プーイと向こうへ行ってしまいました。
私はその日の午後、さっそくお見舞いに上がりました。家族の方達はみなお留守で、お母さんが寝巻の上に羽織を羽織って出てこられました。玄関先で薄暗いせいか、以前よりも頬骨が尖っていて、額が鉛色に見えました。
「マコちゃんのことで、ご無理されたからじゃないんですか?」
私は挨拶もそこそこに恐る恐るお尋ねしました。お母さんは意外に明るく、「何言うておくれやす。そんな心配してもらうたら、どもなりまへんがな。それより先生方のお陰で、マコちゃんがあんな好(え)え子になりましたのに、お礼も言いに寄せてもらわんと、済まんことや思うてます」
そういった後、何となくシンミリとした調子で、「そやけど、年いってから出けた子は、余計のこと確りさしといてやらなあきまへんなあ。いつ親がどうなるか分かりませんやろ。私も身体良うして、長生きしてやらなあかんと思うてはいますのやけど」
「そんなことおっしゃらんと、マコちゃんのためにも、一日も早く健康になってあげて下さい。マコちゃんの人生は、まだ始まったばかりなんですよ。誰だって幾つ幾十になっても、何をしたときでも、一番に飛んでいって報告したいのは母親なんですよ。ぜったいに、弱気を出されちゃ、いけません」
「へえ、おおきに、ほんまですなあ。気の弱いこというてたらあきませんなあ。よっしゃ、ここは一つ、マコちゃんのために、頑張りますわ」
そういってお母さんは、多少冗談ぽく胸をポンと叩いて見せました。
私の、マコちゃんのお母さんに関しての思い出は、この日を最後にフッツリと切れております。
二学期からのマコちゃんが、日を追う毎に一段と成長を見せて心配のなくなったことや、私の送り迎えのグループでもないのに、またクラス担任でもないのに再々お訪ねするのもはばかられて、その後はお会いせず終いになっていたからです。
マコちゃんの説得力
今年の四月から、マコちゃんはいよいよ年長組の月組さんになりました。この間まで仲良く遊んでくれたお兄ちゃんの、健ちゃんと滋ちゃんは卒園していなくなりました。でも平気です。同年の明ちゃんがいます。送り迎えグループでも最年長児として、今度は小さい子どもの面倒をみる立場です。
新入園児の中に、稔ちゃんという子どもがいました。
四才児の稔ちゃんは無邪気な、気分の可愛い子どもなのですが、小さいころ近所のどもる人の真似をしている内に、本当に自分までがどもるようになってしまいました。
子どもたちは、どもる喋り方というのが珍しいのと、さいきん遠くから越してきて地方訛りも混じっていたため、別に悪気(わるぎ)はないのですが、いつしか稔ちゃんの言い方を真似する子どもが出てきました。
一人がいうとほかの子ども達も吊られて真似をします。そんな時、稔ちゃんはとても悲しそうな顔をします。孝子先生も何度も注意するのですが、先生のいないところでは、やはりやっているようです。
その日は、山の麓までくると、孝子先生は足の遅い三才児の手を引いて、みんなの一番後からついて来ていました。
ふと顔をあげると、かなり前方で子どもたちの集団が立ち止まって、何やら顔を寄せ合っています。近寄ってみますと、その中心にいるのは、マコちゃんでした。マコちゃんはかなり怖い顔をしてみんなを睨(にら)んでいます。
「お前ら、稔ちゃん、かわいそうや思わへんのか。稔ちゃんはあんな言い方、言いたいさかい言うてんのと違うんやぞ。言へへんさかい、仕方なしに言うてんのや。もしも、自分が言われたら、お前らどんな気がするんや。もう言うたらあかん!」
孝子先生は、みんなの後ろで聞きながら、「私より、よっぽど説得力があるわ」
と、マコちゃんの優しさに感心したり、苦笑させられたりたのでした。
三筋の掻き傷
それとともに、あんなに意気地のなかったマコちゃんが、この頃では、手足の出る喧嘩をちょいちょいしてくるようになりました。
ある日、夕方になって額に猫の爪に引っかかれたような掻き傷を三筋つけて帰ってきました。台所へ駆け込むと、晩の支度をしているお姉さんに、「ねえちゃん、薬ぬって」
と、傷をつけてきたことをむしろ誇らしげに、上ずった声でいいました。「あらあら、どないしたの?」
お姉さんは、マコちゃんの傷のふちを撫でながら言いました。「けんかしたってん」
「誰と?」
「正夫ちゃんとや」
「正夫ちゃんて、一年生の人やろ?大きい人や」
「そうや、ぼく、泣いてへんで」
「正夫ちゃんに、怪我(けが)さしてへん?」
「そら、ちょっとはしよったわ。そやけど、ぼくの方がきついのやで」
「そうか。そやけどなあ」
とお姉さんは、急に声をひそめて言いました。 「お母ちゃんなあ、マコちゃんのこと、心配でならんのや。この頃、しょっちゅう喧嘩してくるやろ。お母ちゃんのからだには、心配が毒なんや。
マコちゃんが、小学生の人と喧嘩出来るくらい元気になってくれたんは、嬉しいんやけど、でもな、今は、家ではお母ちゃんの身体のことが一番大事なんや。そんでな、喧嘩しよ思うたときは、お母ちゃんの病気のこと思い出して。お願いやから、お母ちゃんのためにがまんするの」
マコちゃんには、お母さんの身体のことをいわれると、言葉の返しようもないのでした。
だが、しばらく考え考えしてから、「あんなあ、だれかが小さい子いじめてよっても、黙って見てんのんか?」
「そら、そんな時には」
お姉さんは、ハタと言葉に詰まってしまいました。マコちゃんの言う通りです。お母さんの病気のことを思うあまり、飛んだことを言ったものと悔やまれました。「ごめんやで。そんな時には、そら、仕様がないわな」
「やっても、ええのやな?」
「ふん」
「そんなら今日のかて、しょがないわ」
「なんでやの?」
「正夫ちゃんが、広ちゃん、いじめとったんやもん、広ちゃん、ゆき組(四才児)やで。ぼく、月組(五才児)や」
「そうやったん。マコちゃん、勇気あんのやなあ。よう聞きもせんと、かんにんやで」
お姉さんは、日増しに頼もしくなってきたマコちゃんを、もっともっと褒めてやりたいと思う一方、眠りから醒めたあとで、お母さんがマコちゃんの額の掻き傷をみたら、また胸を傷めるであろうと思うと、ひとりでにその気持ちも萎(な)えてくるのでした。
夕ご飯の後です。お父さんがちゃぶ台の向こうから、マコちゃんの顔をしげしげと見つめていました。「何やな?けったいやなあ、お父ちゃん」
「お前、なかなか好えとこあるなあと、見直してんのやが」
横から、中学へ行っているすぐ上のお兄ちゃんが、「マーコ、大っきい子とけんかしたんやて。一人前や。喧嘩すんのやったら。胸のすくようなやつやれよ!」
お兄ちゃんは、右手の甲を一方の掌(てのひら)の腹にガツンガツンと打ち当てて言いました。「むうちゃん、そないにけしかけたら、あかんやん」
お姉さんが、お母さんの枕元から戻ってきて、そっと言いました。
マコちゃんは、終始黙っていましたが、お父さんの顔をまっすぐに見て、はっきりと言いました。「お父ちゃん、ぼく、もう喧嘩せんとこ思てんのや」
「何でえ!」
お兄ちゃんが、横から口を尖らせました。「そやかてえ」
といいよどんでから、また顔を上げて言いました。「お父ちゃん、ぼく、ええ子になったら、お母ちゃんの病気ようなるんやろ?ええ子は、喧嘩せんのがええ子なんやろ?」
「そら、まあ、そうや。喧嘩はせん方がええ。喧嘩はしたらあかん。そやけどなあ、悪いことには目をつむってたらあかんのやで」
「そんなら、やっぱり喧嘩せなあかんや」
「違う。喧嘩せんかて、お前の思いを相手に伝えることができるのや」
「どうしたらええの?」
「言葉や。手を出すのは、弱ミソのすることや。言葉で自分の気持ちをぶっつけるのや。相手が大きかったら言い負かされるかも知れん。それでもお前がおかしいと思って、その気持ちを、相手を怖がらずにぶっつけて行ったら、負けても決して恥ずかしいことと違う。
そのうちに大きうなったら、ちゃんと言えるようになる。悪いことには目をつむらんと、言葉でぶっつかって行くんや。それが、本当のええ子なんや、本当の強い子なんやで」
マコちゃんは、お父さんの言葉を一点を見つめて聞き入っていましたが、急に生き返ったように目を輝かせると、「わかった。ぼく、ええ子になるねん。強い子になるねん」
と憑(つ)かれたように繰り返していました。
はたらき蟻を守るんや
もともと素直で優しいマコちゃんは、それからは手を出す喧嘩はしなくなりました。でも思ったことはどしどし口に出して言っています。
虫を捕らえる子には、「かわいそうやんけ、逃がしたれ。虫にかてお母さんいやはるのやぞ。お母さんが泣かはるやん」
とたしなめます。また、小さい子が花を千切っていると、「お花が、痛い痛いいうてるで。花にかて、いのちあるのやで」
とも言っていました。
お母さんの亡くなられる三日前のことでした。
幼稚園から帰りの道すがら、先を行っていたマコちゃんが、中に何かを入れ両手をお碗のようにして、不均衡な姿勢で孝子先生のところへ戻ってきました。「これ、はたらき蟻やな」
孝子先生は、マコちゃんの両手をほんの少うし外して、そっと中を覗きました。「そうよ。よく覚えていたわね」
前にも聞かれて、蟻の生態について話したことがあったのです。「はたらき蟻はかわいそうなんやな。一生懸命はたらいて、あとで女王様に殺されよんのやな」
「そうねえ、可哀相(かわいそう)ね。でも、蟻さんのお国ではそういうことになっていて、仕方がないのね」
「ぼく、この蟻、お家持って帰って、飼うたんね。女王蟻がこんように守ったんね」
マコちゃんは、また両手をつぼめると、はたらき蟻を大事そうにお家へ運んで帰りました。
二つの墓標
七月三日の未明、「マコちゃん」
そういって、マコちゃんの手を握ったまま、お母さんは眼を閉じました。「おかあちゃん」
マコちゃんは、いつもと同じように呼びかけました。お母さんの口は、再び開きませんでした。並みいる人々のすすり泣きで、初めてお母さんの死をマコちゃんは知りました。
かつて健ちゃんが石段を下りてきたお婆さんのことを、「おばあちゃんやから、つぎは死ぬんやな」
といった時、病気のお母さんのことを言われたような気がして、「いうたらあかんわい、いうたらあかんわい!」
と、顔を涙でぐちょぐちょにしながら健ちゃんを責め立てていたマコちゃんが、今、目前のお母さんの死に対して、まるで悟った人のように、お母さんの手をしっかりと握ったまま、その死に顔をじっと見つめているだけでした。
集まった人達は、意外に気持ちの乱れない、むしろポカンとして見えるマコちゃんの態度に、惻々(そくそく)と心を打たれました。
思えば、ほかの兄弟の誰れよりも、マコちゃんのため心置きなく手を掛けて逝かれたお母さん。そのお母さんに、「ぼく、ええ子になるねん、強い子になるねん」
といっていた言葉通りの、素直な、強い、良い子になり、お母さんを安心させて見送ることの出来たマコちゃん。二人の間には、何か運命的な予感が閃きあっていたのかも知れません。
お葬式の最中、マコちゃんは一方の手の中に、一匹の蟻を大事そうに握りつづけていました。幼稚園の帰りに連れてきた、あの、はたらき蟻でした。
生前お母さんから、「どんな小ちゃな生き物にかて命があるさかい、その命は大切にしてやらなあかんのやで。」
と言い聞かされていた、その、小ちゃな生き物の命の灯を守るかのように。
蟻はマコちゃんの手の中で汗をかいていましたが、お葬式が済んでマコちゃんが手を広げてみると、ぐったりとのびていました。
翌日の夕暮れ、マコちゃんは家の裏庭の空き地を小さなスコップで掘り返していました。動かなくなった蟻を穴に埋めると、土をかぶせてかなり大きくこんもりと盛り上げました。そして、かまぼこ板にたどたどしくマジックで書いた、「はたらきあり」
の墓標を、盛り土の上に立てて、静かに見つめました。
しかし、何となく物足らぬ風で、一度家の中へ入ると、しばらくしてから同じようなかまぼこ板に、「おかあちゃん」
と書いたのを持ってきて、「はたらきあり」
の傍に並べました。
華やかな夏の太陽の残り陽が、二つの墓標を眺めるマコちゃんの横顔を、明るく照らしていました。