昨日、山びこ通信の巻頭文を紹介しました。

その中で、大学生がインファント(言葉が話せない=幼児)になるという皮肉な出来事に言及しました。

私は縁あってここ数年大学で講師を務めていますが、これは年々感じることです。実体験であり誇張ではありません。

筆記試験をした結果、深く思うところがあり、個人のHPで試験結果について記事にしました(この内容のアップは事務の許可は得ています)。

>>2017年度(後期)試験を終えて

四択の試験はできても、言葉の力を磨かずに大学に入ると先生にも学生にも悲劇が待ち受けます。

私は質問をしないインファントな学生たちに対し、「幼児教育的視点」で授業の受け方、文章の書き方のイロハを教えないといけないことを残念に思います。

幼稚園時代の好奇心、探求心、キラキラとした瞳の輝きは、いつのまに消えてなくなるのか、あるいは消えないのか、その差は何が生むのか、と思わずにいられません。

ボタンの掛け違いはどこから生じるのか。私は小、中、高の時代にどれだけ本を読んだか、それを問いたいです。

他人の言っていること、書いていることを虚心坦懐に理解する経験の基礎は、日常の会話、ならびに読書で培われます。

幼稚園児の保護者に一番訴えたいことは、学校教育(ならびに進学塾の勉強)に<あえて>過度の期待はもたず、本当にその子の人生を考えるなら、本の読み聞かせの時間を幼稚園時代、そして小学校時代には大切にしてほしいと願います。

世の中は知識の多寡に注目しがちですが、大学で教える立場から見れば、誰もが五十歩百歩です。むしろ、言葉の力の有無が彼らの将来を決定づけます。それがやせ細っている学生(インファントな学生)がなんと多いことか。

私も自分の評価軸がずれていないか、真剣に悩みましたが、まともな答案も少数ながら存在するので、それはないだろう、ということにして、どうしてこうも言葉が「かみあわないのか」、世代のずれという話ではないとすれば・・・と考え続けています。

以前も書いたと思うのですが、やはり、正確に文章を読み、そこに何が書かれているのかをまとめる力が決定的に不足している、そのような教育がほとんどなされていない、なされずにも大学には入れる、ということだと思います。

大学に入れさえすればそれで問題ないだろう、という人もいますが、人生はそこで終わるのではありません。大学の先生たちはみな相当苦労されていると思います。

繰り返しになりますが、特効薬は本の読み聞かせです(本の世界を楽しむ子どもは放っておいても本好きになります)。

保護者には(子どもに代わって)いつもそれをお願いしています。そんなことをして何の役に立つのだろう?と思う人は本園保護者にはおられないと思います。

それは楽しいから行うものであり、役に立つからやることではありません。しかし、あらためて今の学生たちのインファントぶりに接するにつけ、「三つ子の魂百まで」というか、二十を超えてからではtoo late だと言わざるを得ないし、「今そこにある危機」はお伝えする義務があると思います。

「言葉の力を磨く」ことに親子ともに無頓着になり、短い時間で多くの知識を効率よく詰め込むことが勉強だと錯覚して学年を重ねると、みな早晩インファントになる道をあゆむことになる、という可能性(あくまでも可能性)について、考察を重ねるこの頃です。

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