昨日の話の補足として、親子でできることについて書いたエッセイを紹介します。

>>「素読と音読」

素読というと言葉が仰々しいですが、要は幼稚園でやっている俳句のスタイルです。

私は植物栽培については疎いのですが、現代のテクノロジーを駆使すれば効率的な植物栽培は可能のようです。

同様に、子どもの基礎学習の領域については、テクノロジーがいくらでもその能力を高めることは可能であると思います。

ただし、植物の場合、人間が手塩にかけて育てた味と同じものを生み出せるのか、私は知りません。人間の教育についてはいわゆる科学的、客観的な「実験」はありえませんが(条件を変えて比較することは不可能。同じ人間は二人といないから)、直感的に言えば、テクノロジーによる知識教育は「学びの実感」が乏しいというネガティブな一面をもつのではないか、と思われます。

「学びの実感」を得た子どもたちは、自力で学ぶでしょう。養鶏場のように無駄を排除した環境で、効率最優先の知識伝授を受け続けた子どもは、刺激のスイッチが切れたら学びの電源もオフにならないか、と思います。

子どもが将来どんなジャンルであれ、「よし、やろう」と自力でがんばる人になるには、その基礎として、親子でできることをどれだけ充実させるかがカギを握るように思います。

小学校時代に一番大事なのが、私は漢字の書き取りよりも本の音読の支援だと思っています。これは親がかかわらないと絶対に無理なことであり、一日5分か10分でよいので、心を込めて向き合ってほしいと切に願います。

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