いつもご紹介する司馬遼太郎氏の言葉を再掲します。年長保護者向けにお話しした内容は、司馬氏同様「日本語の基本」を家庭で大切に培っていただきたい、という願いをこめたもので、歩くことが健康の基礎であるように、言葉(母語)の教育は生涯にわたる学びの基礎だと信じております。
「国語力は、家庭と学校で養われる。国語力にとっての二つの大きな畑といってよく、あとは読書と交友がある。国語力を養う基本は、いかなる場合でも、「文章語にして語れ」ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境(つまり単語のやり取りだけで意志が通じあう環境)では、国語力は育たない。
ふつう、生活用語は四、五百語だといわれる。その気になれば、生涯、四、五百語で、それも単語のやりとりだけですごすことができる。ただ、そういう場合、その人の精神生活は、遠い狩猟・採集の時代とすこしもかわらないのである。
言語によって感動することもなく、言語によって英知を触発されることもなく、言語によって人間以上の超越世界を感じることもなく、言語によって知的高揚を感ずることもなく、言語によって愛を感ずることもない。まして言語によって古今東西の古人と語らうこともない。ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、何をいっているかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い」(「何よりも国語」より)
「水」と子供が言ったとき、コップに水を入れて手渡すのではなく、「水がどうしたの?」と一言入れるか入れないか、後々大きな違いになって現れる、ということを意味します。
教育は簡便なものでなく、手間暇かかる面倒なものです。愛と忍耐がそれを可能にするのだ、ということができます。