「人間が他の動物と異なる点は、人間は最も模倣的な動物であって、人間の最初の知識は模倣を通じてなされるという所にある。」
アリストテレスの 『 詩学 』にみられる言葉です。
幼児を見ているとこの言葉はそのとおりだと思います。
模倣を独創性の欠如と批判するのは簡単ですが、日本語でも「守・破・離」というように、はじめは徹底した模倣からスタートするほか道はありません。
模倣とは憧れであり、尊敬の別名です。
徹底的に模倣するとき、人は模倣でがまんできなくなるものです。そしていずれ自分の味が出せるようになります。
幼稚園の部屋をのぞくと、壁面を飾る子どもたちの絵をみて「同じ絵ばかりだ」という批判がなされることがあります。ここはこうして、この色を塗って、という型にはまった指導を思い浮かべ、それを批判されるのだと思います。
私の園では基本的にそのような指導はとっていないのですが、かりにそのような指導が世の中にあるとし、私がその園の保護者であるとしますと、参観日の日には、「おもしろい。うちの子はどこまで言われた通りにできるかな」と興味をもって見るでしょう。
かならず模倣の先にその子ならではの創造があります。見るべきはその点です。幼児の場合大なり小なり、イントロの部分は先生がつけるにせよ、いったん夢中になった子どもたちは(良い意味で)手が付けられません。
言い換えるなら、集中力マックスの子どもたちにとって、先生の言葉はまるで耳に入ってこなくなります。
私が園長として部屋を見て回り、もし注意したいことがあるとすれば、このように集中できずにいる子はいないか、という点です。その子には何か事情があるのでしょう。今は「そのとき」ではないのだと思い、次のチャンスを用意したいと考えます。
森に行き、心地よい風を感じれば、だれもが芸術表現を目指すでしょう。その期待も(多少)あり、本園はしばしば森に足を運びます。年長児なら俳句を詠むでしょう。引率しているとよく目を輝かせ、「あ、思いついた!」と言われることがあります。厳粛な瞬間に立ち会っていると襟を正す瞬間です。
子どもにとって絵を描く時間は貴重な経験です。
夏休みにお子さんが家にいる時間が長く、どうやって時間をつなげばいいのかと悩むご家庭があれば、「絵を描く機会をふんだんに与えること」をお勧めします。
もし大人に時間的ゆとりがあるなら、同じモノをいっしょにデッサンしてもよいでしょう。あるいは互いに互いの顔を絵にかく、等。
むしろもっとも大事なことは、黙って紙をたくさん用意することです。そして、子どもが「描けた!」といって見せに来た絵について、あれこれ批評せず、そのかわり手に取ってじっと丁寧に見てあげてほしいと思います。もちろん仕事で忙しい場合は、その限りではありません。いずれにせよ、「もう一枚描いていい?」と聞いてきたらしめたものです。
「うん、いいよ」とか、「次はどんなえかな、楽しみね」と応じればよいでしょう。
紙を節約しないといけない事情があれば正直にそう伝え(裏に描きなさいというのはアリだと思います)、可能な限り紙は自由に使えるようにしていただきたいと思います。
心の中で「何枚描くだろうか」と楽しみにしてもよいでしょう。
旅行に行ったあととか、楽しいことがあった後はチャンスです。子どもは何も言わずに絵をかきたいと願うでしょう。本当は小学生高学年でもそうあってほしいものです。小学生なら、画材を変えるのも一つの刺激になります。
私は小学校3年の時に四条のなんとかいう画材屋で油絵のセットを買ってもらったときの喜びを今でも覚えています。どのみち電気仕掛けの何かにお金をかけるなら、画材に投資するのも一案です。
かくいう私は家では黙った絵を描き続けた(あるいはブロックでひたすら遊んだ)子どもであり、私の弟妹も絵に関しては自由に描きたいものを描いて育ちました。さいわい家が幼稚園だったので、子どもが自由に使える紙のストックは親が用意してくれたのでした。
人生なかばを超えた今だから自慢でもありませんが、私の弟は小学校の頃に文部大臣の賞を受けましたし、私も小学校時代は描いた絵のほとんどが賞を受けました。どんな指導を受けたのかといわれても、返す言葉がありません。
ただ、自然の中で思う存分遊び、家に帰ってはひたすら絵を描いていた。そんな子ども時代が何か表現先を求めていたのだと思います。そして、あの当時真剣に絵に向き合っていたときの張り詰めた気持ちは今も心地よい思い出として忘れずに残っています。
他の科目と違い、絵の取り組みは人間の心の奥底にかかわる大事なものだと思います。絵は人生そのものを表すものといっても過言ではありません。大人が何か言葉でそれを批評するとき、子どもは生き方までコントロールされることを学びます。黙ってそっとしておく、というのがベストだと思います。
繰り返しになりますが、導入部分においては、ちょうどグライダーが滑走するときのように幼児にたいしてなにがしかの導きは必要だと思いますが、いったん離陸したあとは、どうか自由に大空を飛翔する喜びを本人に存分に味わってもらいたいものだと願っています。