自著(『お山の幼稚園で育つ』世界思想社)に「子どもの心にピントを合わせる」話を書いています。
該当箇所を抜き出してご紹介します。
送り迎えの道中で、子どもたちは色々な話をしてくれます。ある朝、先頭にいた女の子に「あんなー、うちのおとうさん、おさけすきやねん」と突然言われ、ちょっとびっくりしました。
「先生もお酒は好きやで」。「でもなあ、タバコもすわはるねん」。(私はタバコは吸わないので)「ふーん」と間の悪い返事を返すと、間髪入れず、「あんなあ、かっぱえびせんやねん(笑)」
私も笑いながら「どういうこと?」と聞きますと、「わたし、かっぱえびせん、すきやねん。”やめられない、とまらない、かっぱえびせん♪”」
これ以上話は展開せず、すぐ別の話題に切り替わっていきましたが、子どもたちとの会話の断片には、しばしば家族を思う気持ちが垣間見られます。
上の例も、父親の健康を気遣う気持ち(お母さんの気持ちの代弁かな?)はもちろんのこと、同事に、ある種の同情(お父さんの気持ちもわかる、だって自分も好きなおやつはついついたくさん食べてしまうだから・・・)も見て取れます。
子どもを子どもと思うと見誤ることが多々あります。気持ちを伝える言語の稚拙さは別とすれば、人間としての優しい心配りや内面の葛藤は、大人のそれと何も変わらないといつも思います。
子どもの言葉は語彙が少ないこともあり、しばしば断片的です。行間を読むという言い方がありますが、言葉と言葉の「間を読む」心の余裕がないと子どもの言わんとすることがなかなかつかめません。
子ども同士の喧嘩を見ていても、相互に自分の思いを相手にうまく伝えきれないもどかしさといらだちから派生するケースが多いです。
大人が子どもの心にピントをあわせ(これが難しい)、子どもの言葉をわかりやすく「通訳」することで、子ども同士の間のコミュニケーションがうまくいくことが多々あります。
忙しいと中々チューニングが難しいわけですが、私たち教育に携わるものにとって、このスキルこそ、学校の教科書では学べない、しかし、もっとも大切な力だといつも思わされます。
子どもは英語でインファントといいます。元の意味は「話せない」ということです。
「話せない」けれど、心の中は大人と変わらない意識をもっています。
私たちも言葉の通じない国を旅行する自分を想像してみてください。
もどかしさ、いらだちの原因は言葉にあります。
「あなたが言いたいことはこういうことね」とやさしい言葉で確認してくれると安堵し、その人を信頼します。
何を言ってるの?という顔をされて、無視されたらどうなるでしょうか?
幼稚園にかぎらず、学校教育の現場でもっとも大切なのは、知識の多寡でなく、上で述べた子どもの心にピントを合わせる力の有無だと私は思います。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
みなさま、よいお年をお迎えください。