昨日の話の続きになります。
時間にして一瞬の出来事が人生の長きにわたって大事な意味を持つことがあります。
「一瞬は永遠なり」とは大それた言葉ですが、西洋の古典の言葉「一瞬は永遠の一部なり」の私なりの改変です。
道を歩む人も、右に曲がるのか、左に曲がるのか。判断は常に一瞬です。そして、その先の展開は大きく変わります。
今、毎日のように目まぐるしく多くの判断を問われます。
一瞬、一瞬の判断に大きな意味付けがなされます。
各ご家庭でも同様でしょう。
子どもの寝顔を見ていると、大人の苦労などどこ吹く風の表情で、すやすや寝息を立てています。
しかし、子どもも大人の一瞬一瞬の心の動きに自分の心をシンクロさせ、多くのことを感じ取り、吸収しています。
困難にくじけず、前を向いて乗り越える勇気。無理せず様子をうかがう慎重さ。
これは図解したり、文字で説明するたぐいのものではなく、一瞬の表情や言葉の調子にふくまれる「何か」を通し、子どもたちには瞬時に察知される性質のものだと思われます。
私自身小さい頃を思い出すと、親のふとした表情や言葉の端々から、責任をもって仕事に臨む姿勢とは何かが伝わってきました。
そんな親の仕草の数々は、ふとした思い出の映像とともに、いくらでもよみがえります。
誰もがベストの判断をしようと努力しています。正解、不正解は誰にもわかりません。
大事なことは、真理を追求する大人の真摯なまなざしこそ、子どもたちの学びの魂に火をつけるという事実です。
一瞬の判断に魂を込める大人の情熱のほとばしりを子どもの目は逃しません。
先日ご紹介したスティーブジョブズの言葉にあるように、「今」という点(=瞬間)がどういう「未来」の点(=瞬間)と結びつかは神のみぞ知る、です。
還暦を迎えた今自分が半生をふりかえり思うことは、幼稚園の坂道が左右二つに分かれていて、どちらを選んでも坂道を登り続ければ必ず山頂に着くように、あちらの道を選んでも、こちらの道を選んでも、どちらの道を選んでも今いる場所は同じなのかもしれない、ということです。
左右の選択は近視眼的に見れば重要であり、我々はその決定に一喜一憂しがちですが、長期的に見ればその選択そのものより、その後自分がどうその選択を生かして歩み続けたか、その方がもっと重要だと思われます(世にいう受験がそのよい例です)。
人間万事塞翁が馬、と言います。
世にいう失敗も成功も、あとにならないと本当の評価はくだせない、という意味で理解できます。
いま、世界全体で困難がつづいています。子どもたちを中心に「犠牲」を強いられている部分は少なくありません。それを10年後、50年後、どうふりかえることができるのか、それは各自のこれからの一歩一歩の歩みが決定するように思われます。
幸運も不運も等しく人は授かります。幸運に我を忘れて自滅する人もいれば、不運をばねに努力を続け幸福をつかむ人もいます。
園児たちには、おりにふれて「ヘラクレスの選択」の話をわかりやすくしています。
岐路にたつとき、自分で正しいと信じる道を選び取る勇気をもてるように。そして、信じた道を歩み続ける根気強さ、努力の大切さを知るように、と。