週末の「ラテン語の夕べの話」とも関係する話ですが、古代ローマの人たちは「運命のはからい」を信じていました。

このことで思い出す日本語の文章として、次のものがあります。

多くの選択があったはずなのに、どうして自分は今ここにいるのか。なぜAではなくBの道を歩いているのか、わかりやすく説明しようとするほど、人はしばし考え込んでしまうのかもしれない。誰の人生にも様々な岐路があるように、そのひとつひとつを遡ってゆくしか答えようがないからだろう。星野道夫

「どうして?」の問いに対して、ローマ人なら「運命のはからい」と答えたでしょう。

むろん私たちの文化にもこの考え方は根付いています。「塞翁が馬」という言葉もその一つに数えられるでしょう。

逆説的に言えば、「どうして?」に対して答えに窮して「考え込む」のが本来であり、「そんなこと言われなくても決まっている」というのは、ちょっと肩の力を抜いたほうがよい、ということなのだと思います。

目の前のことと一つずつ丁寧につきあいつつ、後で振り返るとこういう道ができたな、というくらいでちょうどなのかもしれません。

先日話題に取り上げた「選択と集中」であるとか「成果主義」の考えとは相いれないものの見方ではありますが。

日本の昔話には「成果主義」を戒めるお話としてさまざまな正直爺さんと意地悪爺さんの対比が描かれていますね。

正直爺さんはどうして花が咲いたのか?咲かせようと思ってあれこれしたはずはない、ということです。

子どもの教育をどうしようという話も大切ですが、私が保護者会でよくお話しするのは、子どもの寝顔を夫婦でご覧になって、生まれてから(生まれる前の二人の出会いから?)今日までの出来事の一つ一つをふりかえるのも大切です、というものです。

あれがああなってこうなって今があるのだ、というふりかえりの時間は大切です。

生まれたころから今に至るアルバムを(夫婦で or 家族で)一緒に眺める時間も大事ですね。

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