ウェルギリウス

先日のラテン語の夕べの資料の一部を紹介します。

岡道男、「ウェルギリウスの英雄像」(『ギリシア悲劇とラテン文学』、岩波書店 1995、p.241-271)より、次の3つのポイントを抜き出して紹介しました。

1)「キケローは、祖国のために自己の財産と生命をすすんで捧げるが、自己のほまれを捨てることは、たとえ国家がそれを要求しても決して応じない者として、ギリシア人だけをあげている(『義務論』1.84))」(p.264)。

2)「トゥーキューディデース(『戦史』7.48.4)によれば、シケリアーに遠征したアテーナイの将軍ニーキアースは危機に陥った指揮下の大軍を故国に撤退させて汚名をこうむるよりも、「己のために」敗戦を覚悟して敵地にとどまることを選んだが、シケリアーにおける敗戦はアテーナイの決定的敗北の遠因となった」(p.264)。

3)「他の将軍たちはハンニバルとの決戦を求めてしばしば敗北を喫したのにたいし、『ためらう者』とよばれたクイントゥス・ファビウス・マクシムスは目立たぬゲリラ的戦法でカルターゴー軍を悩まし、ついに彼らをイタリアから撃退することに成功した。前二世紀の国民的詩人エンニウスは彼を称えて、『ただ一人の者が延引の策で国家を救った。国の安寧よりもほまれを重んじることはなかったから。それゆえこの勇士の栄光は時の経るにつれますます輝く』と歌った。」(p.264-5)

2)のニーキアースの例は他人事のように感じられません。日本の歴史(戦前、戦中、戦後、そして今)をリードしてきたのはファビウス・マクシムス型のリーダーかニーキアース型のリーダーか?という問いを立てることは可能です。

ローマの歴史家リーウィウスもファビウス・マクシムスを高く評価しました(『ローマ建国史』第22巻39)。

「栄光を軽んずる者こそ、真の栄光を得るであろう」(Glōriam quī sprēverit, vēram habēbit.)

第二次ポエニ戦争のはじめに、時の執政官ウァロに、クィントゥス・ファビウス・マクシムスはこう言って励ましたといわれます。彼は本当に大事なことは何か?を常に問うて行動した人で、孔子なら「君子」と呼んだでしょう。

その逆は、自分の見栄とプライドにしがみつき、常に自分にとって何が有利なのか、国民を犠牲にしてもどうすれば自分の名誉を守れるのか?ばかりを考える人。ニーキアースのような人間が権力をもつと国民全体が不幸になるということです。孔子は「君子は義にさとり、小人は利にさとる」といいました。

途中の話を全部飛ばして、最後に結論として紹介した解釈をかいておきます。それは、ウェルギリウスが現代にも通じる普遍的英雄像を示したというものです。

具体的には『農耕詩』に出て来る農夫の話をしました。

私の解釈では、ウェルギリウスの独創は、キケローがファビウス・マクシムスに見出したローマ的英雄像を名もなき農夫に重ねた点にあります。

英雄は何かに秀でた超人ではなく、名もなき市井の一人一人でありうることを示唆しています。ウェルギリウスは「曲がった鋤でひたむきに大地を耕す」農夫の生き方を黄金時代のサートゥルヌスの生き方に例え、称えています。

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