幼稚園のホームページに載せている記事を再読しました。
保護者からよくいただくご相談に、「幼稚園時代は楽しく、先生も優しく、お友達とも仲良く過ごすことができているが、小学校に行くと様々な試練が待ち受けるのではないか」というものがあります。一言で言えば、幼児期に優しい気持ちで周囲に接してもらった子どもは打たれ弱くなるのではないかという懸念です。
大人が子どもをどう見るのか、性善説もよいが、性悪説に立って厳しくしつけたり、多少の邪な要素にも免疫としてふれさせるべきなのか。このことについて、アメリカでは膨大な追跡調査が長年に渡って行われ、以下の結論を得たそうです。性善説に立ち、愛されて育った子どもは、小学校以上の学校教育において、人間関係のトラブルに見舞われても、相手を信じる気持ちに立ち、粘り強く問題解決の道を模索するのに対し、その逆の育ちをした場合には、何か自分の思うようにいかない場合、周りはライバル、敵ばかりだと思ってしまうため、解決の見通しをもちにくくなるのだと。
このことは社会に出てからも同じで、会社勤めにおいて何かトラブルがあると、簡単に辞めてしまう確率が高いそうです。子ども時代に、生き馬の目を抜くような環境下で叱咤され、他人と競わされ、強い言葉で方向づけされた場合、真の自信や他人を信頼する心が育ちにくくなるといえそうです。
スポーツの世界に見られる根性論は、勝ち負けの明確なスポーツにおいては有効でも、人間の健全な成長の観点から見ると、むしろ逆効果になる可能性も否定できません。心の柔らかく多感な幼児期において大切なことは、できるだけ人生を肯定的にとらえることができるような環境を用意し、信頼と安心で子どもたちを包む努力であろうと思います。
子どもたち一人ひとりの「優しさ」が、世の中の「北風」をなだめ、世の中を明るく照らす力強い「太陽」となりますことを願ってやみません。
「優しさ」と並んで大事なのが「強さ」です。
先日の「ラテン語の夕べ」ではこのテーマをめぐって、2千年前のローマ人の考えを紹介しました。
答えは両立可能である、否、両立させるべきであるということです。
優しさはpietas、強さはvirtusと言い換えられます。ローマ人の考える英雄像は、この両方を兼ね備えることでした。
このブログでよくアクセスのある記事の一つに「ヘラクレスの選択」の話があります。
このエピソードのポイントは、「自分との戦いに勝つ」という点です。
ところで、幼稚園児が豊かにもっている「好奇心」はこの健全な戦いの端緒といえるでしょう。
他人との競争は目的が達成されたらそれで終わりです。また、「上には上がある」というオチが常に待ち受けます。
この椅子取りゲームに巻き込まれると、人間が本来もっている健全な知的好奇心がしぼんでいきます。
「なぜ~なのか?」という問いに対して、「そんなことはどうでもよい」というマインドが徐々に支配的になります。
いつも例に出す司馬遼太郎のエピソードがわかりやすいです。
好奇心は、(他人との)競争を是とする大人がつぶす可能性が高いです(司馬遼太郎は図書館にこもって「抵抗」し、それを防御したわけですが)。
「好奇心」豊かな子どもの内面を覗いてみると、「どうしてこうなるのか?」など、ひとり一人自分で自分に問いを出しているのです。
つまり、自分で問題を「解決しよう」と自分に命令しているのです。
砂場で目的をもって取り組む場合、ブロックに夢中で取り組む場合、etc. なんどもそうですが、子どもは夢中で遊ぶプロセスを通じ、自分で何かを何とかしようともがいています。
大人が子どもの心を失わなければ、その取り組みに共感できます。
ちょうど、「ニューヨークはどういう意味か?」と問われて、「よい質問だ」と呼応できるように。
子どもの心を失った大人の場合、「地名に意味などあるものか?」とバカ者扱いするわけです。
大人は頭がよいので、また、今の時代は頭のよい大人が多いので、子どもたちの好奇心は風前の灯火状態だといえるでしょう。
個人の感想ですが、共通一次を導入してから日本の教育はいっそうおかしくなったと思っています。
子どもが他人との競争に勝つよう促すか自分との戦いを見守るか、その違いは子どもにとっても大人にとっても大きいです。