お山の上の桜は満開です。

日中の美しさは格別ですが、上の写真のように夕日を浴びた桜にも風情があります。

どの桜が一番だとか、どの花びらが最も美しいというふうにはならないのがよいと思います。全部があって全部すばらしいです。

幼稚園の子どもたちと同じだと思って眺めています。

話変わって、大人の会話を聞いていると、よく「そんなこと、子どもにでもわかる」という表現に出会います。

私は内心、「<<子どもだから>>わかる」と言い直した方がよいのではないかと思います。

大人は一般に弁が立つので、子どもに対して、上のような「上から目線」の言い方をよくします。

実際、信号を律儀に守るのは大人より子どもだと思います(個人の感想です)。

このことに関して、私はよく司馬遼太郎の言葉を引用します。

「私の中の小学生が、物や事を感じさせてきて、私の中のオトナが、それを論理化し、修辞を加えてきたにすぎないのかと思ったりします。もっとも心にコドモがいなくなっているオトナがいますが、それは話にも値しない人間のヒモノですね」と。『こどもはオトナの父―司馬遼太郎の心の手紙』、神山育子著

この文の前段階で、司馬氏はワーズワースの「子どもは大人の父である」をもとにいろいろ考えをめぐらせています。

せっかくなので、ワーズワースの詩を訳で紹介しましょう。

私の心は躍る、
空に虹を見るときに。
子どもの頃もそうだった。
大人になった今もそうだ。
年老いてもそうありたい、
さもなくば死に至らしめよ。
子どもは大人の父である。
願わくばわが人生の一日一日が
自然を敬う気持ちで結ばれんことを。

最終行の「自然を敬う気持ち」はnatural piety の訳語ですが、別名センス・オブ・ワンダーであり、司馬氏の言うコドモであり、私がよく用いる「三つ子の魂」と言い換えてもよいでしょう。
(ちなみに、先月森田真生氏の訳で、レイチェルカーソンの『センス・オブ・ワンダー』の新訳が出ました。朗報です)。

司馬氏の言葉を借りれば、大人にもコドモは生きています。否、生き続けるべきです。この詩はそれを示唆します。

一方、子どもでもそれを失っている人がいます。不幸の極みです。

その差を生むのが教育ということになります。

教育は、司馬氏の言う「私の中のオトナ=理性・勇気・協調性など」を大切に育て、コドモ(=本能的に会得している善悪の判断力、自然への畏怖、探究心など)を守ることに大事な役割があります。

しかし、今の日本はどれだけそうした教育を大切にしているでしょうか。

それは、子どもを人としてどれだけ尊重しているでしょうか、という問いでもあります。

心もとないどころか、今の世の中は、子どもたちをモノ扱いしていないか、立ち止まって考えるべきときに来ています。

教育の軽視は、不幸の増大を招きます。

教育の衰えは、日本を日増しに劣化させていきます。

連日のように、政治家たちの不祥事が世間を騒がせており、国の基盤を揺るがせています。

地震や津波も大変ですが、政治家たちの心の荒廃ぶりも深刻です。教育の悪い成果の結実といえます。

彼らはどんな幼少期を過ごしたのでしょうか。

みんな最初はあどけない子どもだったに違いありません。

みな学校に通い、それなりに「勉強」し、「努力」したに違いありません。

しかし、その肝心の中身が問題です。彼らはどのような「教育」を受けたのでしょうか。

それは、競争にさらされた過酷なものであったか、あるいは、親のコネで勉強も努力もしない自堕落なものであったか、いずれかです。

競争は「結果オーライ」です。結果さえ手に入れば、手段は二の次三の次です。

選挙に金がかかるという理屈は、カンニングしても試験でよい点さえ取ればよい、という話と同じです。

どちらもバレなければ、手段は選びません。

昨日京大の入学式がありました。

2011年3月、大震災の前日まで新聞のトップをにぎわせたニュースは、京大入試のカンニング事件でした。

勉強は本来他人との競争と無縁です。ひとり一人の「コドモ」が夢中になって学びたい、極めたい、と思う心の導く行動、それが勉強です。

虫取りに夢中になる、魚取りに夢中になる、etc.というのと同じ原理です。そう、勉強は本来夢中になってするもの、できるものです。

数学者岡潔氏も対談の中で次のように述べています。

岡潔:人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむつかしい。 (小林秀雄・岡潔対談『人間の建設』より)

私なりに補足すると、英語のスタディー(勉強)の語源は、「熱意、情熱」を意味するラテン語です。

また、「学校」を意味するラテン語はルードゥスといって、本来の意味は「遊び」です。さらに補足すると、スクールの語源は「暇」を意味するギリシャ語のスコーレーです。

競争は子どもたちから夢と情熱を奪います。虫取り、魚取りも、競争でさせられるなら、果たしてここまで夢中になれるでしょうか。

私が教育に競争原理を持ち込むべきでないと信じる理由はここにあります。

競争による熱意、情熱は一過性のもので、マッチですった火のようにすぐに消えます。

勉強イコール競争だと信じ合格した学生は、合格の次の日から学ぶモーティベーションがなくなって困惑を覚えます。

自分に打ち勝つ克己心は司馬氏の言うオトナを育てますが、点数による他人との勝ち負けに心が奪われると、人は自信を失い、ヒモノになります。

勉強でも仕事でも、人間は心の持ち方ひとつで、立派なオトナにもなり、哀れなヒモノにもなります。

次のような警鐘も見逃せません。

「私は義務教育は何をおいても、同級生を友だちと思えるように教えてほしい。同級生を敵だと思うことが醜い生存競争であり、どんなに悪いことであるかということ、いったん、そういう癖をつけたら直せないということを見落していると思います。」(岡潔『人間の建設』)

今の時代は立派なオトナを育てようとしているのでしょうか、ヒモノを量産するだけでしょうか。

悪しき癖をつけて直せない大人たちの犯す過ちが、連日新聞をにぎわせています。

しかし、子どもたちは、そんなこと(=嘘をついたり、ずるをしたり、他人を馬鹿にしたり、無視したり、etc.)は信号無視と同様、絶対にしてはいけないと腹からわかっています。

そんな子どもたちを大人はどう「導く」というのでしょうか。子どもこそ大人の父(導き手)であるというのに。

もちろん、子どもはそのままで大人にはなれません。

大人が子どもを正しく導くべきです。

ただし、その前提として、大人のすべきことには二つの柱があると私は思います。

1つめは、大人がコドモ(=natural piety、他)を失わないように努めること。童心に返ること。自然の中で子どもと一緒に遊んだり、絵をかいたり歌を歌ったり、本の読み聞かせをしたりすること、など。
2つめは、大人自身がオトナ(=理性、知性、徳性、他)を磨くように努めること。大人の(人間完成に向けて)努力する姿を子どもは黙ってみています。子どもの「学び」は「真似び」であり、努力する大人が真に努力する姿を通じて、子どもを正しく導きます。

ずいぶん長くなりましたが、以上は今日の日記で書きたい主題の前置きでした。

じつは今日、卒園児たちと会う機会があり、みな、生き生きとコドモの心が輝いていました。

そして、コドモ心を忘れない大人の方々が、そうした子どもたちを温かく包んでおられました。

心から嬉しく思い、この子たちの未来が明るいものでありますようにと願わずにいられませんでした。

私の知る子どもたちは、園児も小学生も、中学生も、高校生も、みんな心の中のコドモが生き生き輝いています。

願わくば、世のすべての子どもたちが同じように輝いていてほしいと思います。

すべての子どもたちに、ひとり一人の真の成長を願う教育が用意され、授けられることを祈ってやみません。

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