以前書いたエッセイを読み返しました。
タイトルは「優しさの行方」です。
保護者からよくいただくご相談に、「幼稚園時代は楽しく、先生も優しく、お友達とも仲良く過ごすことができているが、小学校に行くと様々な試練が待ち受けるのではないか」というものがあります。一言で言えば、幼児期に優しい気持ちで周囲に接してもらった子どもは打たれ弱くなるのではないかという懸念です。
大人が子どもをどう見るのか、性善説もよいが、性悪説に立って厳しくしつけたり、多少の邪な要素にも免疫としてふれさせるべきなのか。このことについて、アメリカでは膨大な追跡調査が長年に渡って行われ、以下の結論を得たそうです。性善説に立ち、愛されて育った子どもは、小学校以上の学校教育において、人間関係のトラブルに見舞われても、相手を信じる気持ちに立ち、粘り強く問題解決の道を模索するのに対し、その逆の育ちをした場合には、何か自分の思うようにいかない場合、周りはライバル、敵ばかりだと思ってしまうため、解決の見通しをもちにくくなるのだと。
このことは社会に出てからも同じで、会社勤めにおいて何かトラブルがあると、簡単に辞めてしまう確率が高いそうです。子ども時代に、生き馬の目を抜くような環境下で叱咤され、他人と競わされ、強い言葉で方向づけされた場合、真の自信や他人を信頼する心が育ちにくくなるといえそうです。
スポーツの世界に見られる根性論は、勝ち負けの明確なスポーツにおいては有効でも、人間の健全な成長の観点から見ると、むしろ逆効果になる可能性も否定できません。心の柔らかく多感な幼児期において大切なことは、できるだけ人生を肯定的にとらえることができるような環境を用意し、信頼と安心で子どもたちを包む努力であろうと思います。
子どもたち一人ひとりの「優しさ」が、世の中の「北風」をなだめ、世の中を明るく照らす力強い「太陽」となりますことを願ってやみません。
補足すると、「優しい」と「甘い」は異なります。優しさは相手を思う心から出るものですが、甘やかしは利己的であり、相手ではなく自分の心を満たす気持ちが出発点です。
優しい人(親も先生も)は甘い人ではありません。相手のことを思えばこそ、言うべきことを言うべきタイミングで伝えることを躊躇しません。
優しさは愛であり、愛が人の心を育てます。