今日は年長児のクラスで俳句の時間を持ちました。今日は新しい俳句の紹介です。
本園のやり方は「俳句の素読」ということになります。内容の説明はそこそこにして、ひたすら俳句を声に出して繰り返します。俳句は5,7,5で成り立ちますが、私が5を言うと子どもたちが声を合わせて5を返し、7を言えば7が返ります。その調子で一つの俳句を完成し、これを10回前後全員で唱えて終わりです。10分前後で終わります。
年間で見たとき、扱う俳句の数も少ないし、実施する回数も少ないといえば少ないです。でも、それくらいでちょうどいいのだと思います。なににいいのか?というと、子どもたちが小学校に上がって文字と出会うことに喜びを感じるために、です。今はひたすら「音」を聞いて「音」を返すのみです(これが素読のやり方で文字は使いません。音読は文字を見ながら声に出して読みます)。
教育はバランスが肝心です。何か突出したアピールポイントを強調すると、たしかにそのポイントは10段階評価で10に近づきますが、その分他のジャンルがお留守になります。その結果、肝心な何かの評価が2や3になるといけません。本園は、遊びを大事にしています。その時間を大きく削るつもりはないわけです。ただし、遊びオンリーではありません。俳句の時間は、いわば料理のスパイスのようなものです。塩加減を工夫して、つかず離れず子どもたちが俳句と親しんでくれたらと願っています。
ためしに、「俳句、素読」で検索しても他の教育機関での取り組みは見当たりません。残念な気持ちです。たしかに、素読自体、「なにそれ?」というご時世かも知れません。調べると、「素読」と「音読」をごっちゃにしている記述もあちこちで見つかります。もちろん、先に述べたように、両者は別のものです。
山の学校では、俳句の素読の代わりに「論語」の素読を月に一度やっています。どんなことをしているのか、そこにどういう狙いがあるのかについて、今山の学校の通信用にエッセイをまとめています。自分の人生を振り返り、お山の幼稚園で俳句を学んだこと、小学校~高校にかけて、祖父と父に「論語」の素読をしてもらったことが大きな意味を持っていると実感します。
自分がよかったと思えることは、その理由をよく考えた上で、今目の前の子どもたちにその機会を提供しようと心から思えます。今朝も、子どもたちが力強く俳句を唱和してくれたことによって、自分が信じているものは間違いではないと教えられました。ありがたいことです。