先日来述べていますように、教育の根っこの部分を真心が支えるというのは確かだとして、それがすべてではない、ということを私たち教育の現場にいる者は、しっかり認識しておく必要があります。
真心を生かすのは、やはり技術であるという認識です。技術に焦点を当てるなら、常に向上心を持って、それを磨く努力が問われます。
一番重要なことは、子どもたちの心の声をどれだけ聞くことができるか、ということです。これが実に難しいのです。
今日のお帰りの時、私は第五グループを引率しました。上の園庭から子どもの泣き声が聞こえました。私は「お母さんに会いたいって言ってはるんやろうな」と言いました。
すると、第五の子どもたちは異口同音に「ちがう。あれはAちゃんの声や。お姉ちゃんがいはるやろ。お姉ちゃんと手がつなぎたいって言ってはるんや」と。
(なお、本園の立地条件として、第五グループの子どもたちは、園庭のグループの姿は一切見えません)。
私は「しまった」と思いました。たしかにあれはAちゃんの声でした。と考えると、事実関係は子どもたちが指摘している通りです。
いつもお姉ちゃんと手をつないでいるので、今日は先生が別のお友達とつなごうね、と促していたのでした(お姉さんも他のお友達とたまにはつなぎたい、また、(できれば)誰とでもつなげるようになってほしい、etc. の思いから、先生がそうしたお話をされていたのでしょう)。
私はちょっと迂闊でした。しかし、それ以上に子どもたちは日頃からよく物事を見、声を聞き分けているのだ、という事実を痛感させられました。
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しかし、今あげた例は、「心の声を聞く」というテーマとは若干ずれていますね(実際に聞こえた声をどう解釈するか、という話になってしまいましたから)。
実際にグループを引率していると、こんな場面がよくあります。Aちゃん(年少)をBちゃん(年中または年長)の横に連れて行き、「つないであげてね」と頼みます。Bちゃんは手を出してつなぐ気持ちになります。でも、Aちゃんは頑なにつなぎたくない、という態度を示します。表題にあげた「声なき声を聞く」場面とはこのことで、私はAちゃんのつなぎたくない理由の声だけでなく、Bちゃんの悲しい気持ちの声に耳を傾けないといけません。
「どうして?」という問いの答えを追いかけていくと、放課後に先生同士集まって、なるほどそういうことが背景にあったのか、と合点することもあります。そうして一つがわかると芋づる式にあれこれわかる場合もありますが、わかった気持ちになることがかえって問題に覆いをする場合もあり、事は単純ではありません。私は「わかりたい」という気持ちを持ち続け、わかろうとする努力を払い続けることが何より大事なことだろうと考えています。その純粋な気持ちは、間違いなく相手が子どもであれ、否、子どもだからこそ、心の深いところに届くと思っています。「わかりたい」という気持ちがあれば本当の「語り合い」もできるのでしょう。たとえ言葉を介さなくても。
しかし、と思います。たしかに理屈はそうでも、この「語り合い」が一番難しいわけです。いつも心の中で、何度も何度も子どもたちと心の会話のシミュレーションを繰り返さないといけません。苦労が報われるのかどうかはさておき、教育の基本はこの「繰り返し」にあるということは確かです。子どもが目の前にいるときにあれこれする行為が教育のすべてではありません。むしろ、子どもたちが家に帰った後のシミュレーションがどれだけ大事か、ということです(そのシミュレーションが実際の行動を左右する)。
子育ても同じかもしれません(その場合、上の表現は「子どもが幼稚園に(学校に)行った後のシミュレーションが大事、ということになります)。