山下一郎先生の未発表の遺稿集の中からタイトルの原稿をご紹介します。これは完成原稿でないため、前回の「遺稿集」には入れませんでした。前後の意味が通りやすくなるよう、一部手を入れた箇所がありますことをお断りしておきます。
待ちの教育
― 子育てか、子育ちか
”子育てより子育ちを”という言葉があります。”子育て、子育て、と力むよりも、子ども自身の自然な育ちに任せましょう”、というわけです。
「子育て」の主体は、親であり、「子育ち」の主体は、子ども自身です。この”子どもの主体性を尊重して、子どもの中にある伸びる力を信じましょう”。
これが、「子育てよりも子育ちを」の主旨であります。
園で、個々の子どもの成長を見ていますと、子どもはそれぞれ、時期がくれば思いもよらぬ変化を見せてくれます。どの子もみな、潜在的な成長能力を持っています。その力の発揮される時期は、子どもによってまちまちです。
なにかのチャンスに誘発され、いかにも自然に出るべくして出てくる場合もあります。思いがけない変化が突如として表れて、あれっと驚かされることもあります。でも、それがいったいいつのことなのか、誰にも予測はできません。
親御さんにも、
「あなたのお子さんは、何才の、何月、何日になれば、かならず、これこれ、このような嬉しい変化が出てきますから、焦らず、安心して、その日をお待ちください。」
と言ってあげられれば良いのですが、数字で表せるような予告は、誰にもできません。
でも、間違いなく、どの子にもその時期はかならずやってきます。しかもそれは、他の子には見られないその子特有のものです。親は、その表われをじっと待つのです。目に見えないものをひたすら待つのは不安なものです。頼りないことです。しかし、どこまでも辛抱して待つのです。これこそ”待ちの子育て”であり”待ちの教育”です。
歩き始めの時期はまちまちでも、ひとり歩きの出来ない赤ちゃんは、一人もいません。早い遅いはありますが、歯の生えてこない赤ちゃんもまた皆無です。親の手助けがなくともあせらずに待てば、ひとりでに歩き始め,歯は自然に生えてきます。まさに”待ちの子育て”であり、育ちの主役は、赤ちゃん自身なのです。
親が、待ちの教育にどれだけ徹しきれるか、このことが、子どもの中に潜む潜在能力を、どれだけ伸ばし得るか否かの分かれ目となります。
しかもその間、親はただ手をこまねいて、じっと変化を待っているのではありません。
自然の草花や樹木に接するのと同じように、その根っこに水を注いだり、肥料を施したりするのです。水とは、肥料とは、すなわち、何びとも代わりえない、わが子への親の常に変わらぬ深い豊かな愛情です。
人の子より劣っているところを補ってやろうとあくせくするのは、決して本当の親の愛情ではありません。それは、お隣やお向かいに負けたくない、親の見得なのです。
本当の親の愛情とは、親の見栄による束縛から子どもを解き放してあげる、こころの広さです。子どもの自然の成長に任せる、こころのゆとりです。見守る温かさです。
いまこそ、子どもの根っこに心を込めて愛情の水を注いでください。たっぷりと肥料を施してください。ゆったりとした気持ちで見守っていれば、どの子にも無理なく自然に、よりよき変化、よりよき成長の花開く日は、かならず訪れます。
“待ちの教育”に徹し、子育てでなく、たしかな”子育ち”の日の到来を、肩の力を抜いて、忍耐強く待ってあげようではありませんか。