昨日紹介した絵本通信の感想をいただきました。

絵本通信を読ませていただきました。
息子が中学生になり、新しい生活環境で部活動にも参加して頑張っています。しかし、授業・学習方法では小学生とのギャップの大きさに私も戸惑い、
毎日が追われる日々です。そんな中、本人のゆっくりしたところ・・
出来ているところが追いつかない・・遅れを出してはいけないと
私が必死になっていました。そんな息子ですが、一生懸命遅くなっても勉強するし、要領悪くても悪いなりに頑張っています。その頑張りが見えていなかった、息子のすごいところをほめてあげるのを忘れていたことに気づいていたのですが・・それができず・・・頭では分かっていても・・情けないのですが・・
昨日の記事を読ませていただいて、「あ、そうなんだ。」と改めて思うことができました。
日常会話に出てくる一言を長所としてほめてあげようと。。。
『違うって面白くて素敵』と見ること。
この記事を息子にも読ませてあげようと思います。
自分に自信をもてる とても大事な方法を教えていただきました。
ありがとうございます。
そのことをお伝えしたくメッセージを書かせていただきました。

幼稚園と学校の一番の違いは、そして、小学校と中学校の一番の違いは、無意識のうちに(もちろん悪意なく)「同じことを目指す」という価値観が強まる点です。学校の先生方はそんな意識は皆無でしょうが、国語の勉強を見ても「答えは一つ」ということになります。もちろん漢字の書き取りや数学の問題などを見れば、答えが一つであって当然なわけですが、国語も数学も、また他の様々な科目についてよく考えると、本当は答えは一つではないところにそれぞれの教科の面白さが潜んでいます。

中学と高校では「同じ事を目指す」のですが、その「同じ事」というのは「百点」だと言えばわかりやすいかと思います。これは便宜的にそうしているので、また、昔からそうしているので、誰もが「それであたりまえ」と思い込んでいますが、一方大学で学生を教える立場から出てくる不満は、「言われたことしかしない」とか、「自分から進んで学ぼうとしない」という点です。

一つだけの答えを導くようにみなに号令をかけ続けたら、「自分こそ」と思う人は一部で、多くの人は「彼らに任せよう」と思うでしょう。本当はそうではなく、全員「一人一人違う」ので、違う見方、感じ方で教科にアプローチすればよいはずです。

数学において答えは一つであるにせよ、アプローチが違うと言うことは、一日かけて「わかった!」と言える取り組みをしてもよいということも含めます。証明の問題の場合、学校の先生と異なる方法で結論を導くこともできるでしょう。国語や英語、社会といった人文系の勉強についてはなにをかいわんや。

厳密に言えば、センター試験で百点満点で入学する学生はいないので、本当にそこに価値があるのなら、その勉強のやり直しから始めないといけません。もちろん、それは冗談で、大学にせよ、大学に行かずに社会で働くにせよ、大事なことは、基本的な知識を身につけることと並び、それを疑う力です。日本語で「疑う」という言葉はネガティブな響きを持ちますが、「疑問を抱くこと」は自然科学の基本です。もちろん、文章の読解力も同じ事であり、「この先はどうなるのかな?」と思って読むのも「疑う力」を発揮しているということになります。

大学に入って、また、社会に出て問われる力はこの「疑問を持つ力」です。中学と高校で「疑問を持つな。覚えろ」と言われ続け、大学や社会に出て、「自分で考えろ」と言われると戸惑いしかないでしょう。子どもたちには他人のせいにしてほしくないので、私は山の学校を通じ、ずっと「自分で考える喜び」ということを主張し続けています。「ひとはひと、自分は自分」ということでいけば、世の中にふりまわされずにすみます。日本では「まじめ」が美徳とされますが、行き過ぎた「まじめ」が強要されていて、「自分は自分」と自覚することはけっして不真面目ではなく、むしろ「人間的」であるといえます。

なぜ「日本では」と書いたか、また、「人間的」と書いたのか。そのわけを書くと延々と話が続きます。端折って言えば、日本では儒教の影響が今も根強く教育界に及んでいます。「子曰わく」といえば、何か「有り難い」響きがあります。その続きの言葉を恭しくいただこうという気持ちにさせられます。これが伝統です。

一方、西洋では学校教育の目的として、「人間を作る」という考えが基本にあります。日本もそうだという反論もありえるでしょうが、上で述べた「子曰わく」の「子」が文字通りの先生であったり、教科書であったり、センター試験の過去問であるような教育は「人間を作る」理念とずれています。

というのも、「人間を作る」学問の基本は、「疑う」という点にあるからです。ラテン語で「子曰わく」に当たる言葉は ipse dixit.ですが、これは2000年前に「それではダメだ」という意味で用いられた言葉として知られます(英単語にipsedixitismというのがあり、独断的断定というネガティブな意味で用いられます)。

「なぜそうなのか?」と問われ、「だって先生がそう言ったからだ」(ipse dixit.)という受け答えは幼稚であるというのです。

ちなみに、さかのぼると幼稚園時代には何をみても「どうして?」と心の中でつぶやいていたと思います。この力の大切さを先日の上田先生のご講演でも強調されていたと振り返ることが出来ます。

幼稚園児は「幼稚」と言われますが、少なくとも「疑う力」を持つ点で幼稚ではない、ということになります。ポイントは、その心(三つ子の魂)を生涯にわたって輝かせることだと思います。もちろん、日本でそれを行うのは上で述べた理由から難しいのですが、掘り下げると子どもはそれでよくても、親や周囲の大人がよってたかって「答えは一つ」という価値を押しつけるから難しいだけです。このあたりについて理解ある先生に当たらなくても、親がこのことを自覚するだけで、子どもを取り巻く風通しはずいぶんよくなります。最初に紹介した親の意識さえあれば、子どもの「魂」は確実に守られます。

つきつめると、親がこの問題をどうとらえるかに帰着します。

よろしければ、この続きの話はこちらをお読み下さい。
>>Ipse dixit.(子曰わく)
>>「勉強とは何か」

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