正月気分もそろそろ終わりですが、休暇中私なりに思うことはたくさんあり、学校教育のこれからをあれこれ考えておりました。
一番の根っこは、教科書に書かれたこと(先生が言われたこと)のみを「正解」として教えていくのか、それとも逆に、一人一人自分でものごとを考えよ、という方向を重視していくのか、その違いだと私は思いますが、今後アクティブラーニングなどの手法が取り入れられたり、「みんな違ってみんないい」的な価値観に市民権が与えられる方向で改革が進められたとしても(今後「自分の意見を大事にせよ」をアピールしても)、一方で、内申や入試の枠組みが変わらない以上、そうした仕組みに敏感な子どもたちはやはり先生の指示に従った方が勝ちだと思うでしょう。
私はそんな指示に満ちた中学、高校の勉強が基本的に肌に合いませんでした。先生の指示(黒板を写せ)に従わず叱られたこともありました。このあたりについて、司馬遼太郎の『風塵抄』にある「独学のすすめ」を読み、救われた気持ちになりました。「あ、わたしと一緒だ!」と。司馬さんはニューヨークはどういう意味ですかと英語の教師に質問したら、激烈に叱られたとのことでした。「そんな馬鹿な質問をするな」と。
先に述べた内申や入試の枠組みについてですが、大学自体が入り口に厳しく、出口は甘いという構造をもつ以上それこそが最大の問題であり、さらにその奥にある根本の問題をあぶりだすと、それは、学費を親が負担しているという事実だと思います。だからこそ、大学は留年も落第もさせたくないわけであり、そのあたりは学問とは関係のない話になります。
かりに学費は税金が面倒を見るとなると、いい加減な態度で勉強していたら親ではなく社会が文句を言うことになり、否が応でも努力し続けないといけません。そして、学問を真に愛する奇特な生徒は100人に1人か2人いたらいいところでしょう。となると、日本社会もずいぶんさまがわりしていくでしょう。このままそうならないかもしれないし、そうなっても人によってはそれはよくない、昔(の極端な学歴社会)がよかったと言い続ける人も出てくると思います。
本当の意味で、一人一人に最大限の愛情をこめた眼差しをもって教育がなされることを私は希望します。そして、世の中がどうなろうと、お子さんにとって最大の理解者、応援者は保護者であるという事実は未来永劫変わらないと思います。私たち教育に携わるものは、保護者の愛を手本とし、どれだけのことができるかということだと思います。