ローマのキケローは「生きることは考えること」と述べました。

「考える」でなく「働く」だろ、という人も多いと思います。一理も二理もあります。ただ、一方で、「なぜ勉強するのか」、「どうしてこの世に大学があるのか」という問いにうまく答えられないまま、大学を目指した勉強が奨励されているように感じられます。

デカルトの「われ思うゆえにわれあり」は有名な言葉ですが、この言葉を座右の銘とし、この言葉で文字通り「目が開く思いがした」と語ったのがあのヘレンケラーです。なぜでしょうか。

元の言葉をたどれば、「思う」でなく「考える」という訳が適切だとわかります。

ヘレンケラーは、キケローと同じことを考えていたようです。

人はなぜ学ぶのか。幼稚園の活動は体験を通した学びです。小学校からずっと続く学びの世界への橋渡しを行う大事な仕事を担っています(それがすべてではありませんが)。

私がかつて大学生相手に話した「勉強とは何か」の話について、次のリンク先で語っています。ここで言われていることは幼児教育に携わる人にとって(ひいては小学校以上の現場において)「常識」であってほしいと願っています。

>>「勉強とは何か」

私が今も学問の源にあたるギリシア・ローマの文献に深い敬意と愛着を中国ならびに日本の古典同様に抱く理由も、「山の学校」を創設した理由も、この中で示唆しています。

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