今日はこどもの日です。
子どもたちの教育について考えています。
「勉強」の反対語は何か?と聞かれて、「遊び」と答えるのが一般ではないでしょうか。
私は「勉強」の範囲後は「無気力」だと思っています。
このことについてはいろいろなところで何度も書いていますので、今日は省きます。(>>「勉強とは何か」)
いずれにしましても、我が国で「勉強」は「仕事」と同じようなとらえ方をされています(もちろんその要素があることは否定できません)。
しかし、AIとコロナの影響により、10年、20年先の「仕事」そのものの定義が劇的に変わると予想されます。
勉強を仕事と同じようにとらえるにせよ、勉強そのもののとらえ方も変化させる必要が出てくるでしょう。
私見を述べれば、今後どのような仕事であれ、人間が手間暇かけるべきことで力を発揮できることに焦点が当たるように思います。
学校の勉強でよい成績をとることはすばらしいことです。しかしそれがすべてを保証するものではありません。
人間が手間暇かけて「暗記」することも重要ですが、暗記にかけてはロボットに軍配が上がるので、おそらくその方向に子どもたちの未来があるとは思えません。
非認知能力という耳慣れない言葉も少しずつ言われ出していますが、要は幼児期の「遊び」をモデルにした学びの再定義がいま世界的に行われています(日本はこの点で後れを取っています)。
さらに枝葉を取って言えば、我々が20年前から実践している「山の学校」の取り組みがそのモデルに合致したものだと考えています。
人生にとって本当に大事なことはなにか、人が仕事をして世の中とかかわるうえで大事なことは何か、我々大人がよく考えることがひいては子どもたちの未来を明るくし、学校での学びを意義あるものに変える原動力になるでしょう。
日本の経済が右肩上がりのときに有用だった教育のありかたと、今後のそれは重なる部分もありますが、相違する部分も大きいでしょう。
何が大切なものとして残り、何が省かれていくのか。省かれるものにしがみつく必要はなく、古今東西変わらぬ普遍的価値のあるものに目を向けるべき。
書くと長くなるので、今日はあえて抽象的な言い方でとどめます。
「山の学校」の取り組みを支える考え方に関心のある方は、次のリンク先をご覧ください。