自著(『お山の幼稚園で育つ』世界思想社)の中から個人的にアンダーラインを引きたい箇所を抜き出してご紹介します。
子どもの登園をめぐるタイミングの問題は、桜の開花日の予想と似ています。多少の誤差はあっても毎年三月下旬から四月の上旬にかけて桜は咲きます。例外なしにそうなります。しかし、特定の日(入園式など)に満開であってほしいと願うとき、開花予想日は大きな心配事に早変わりします。「見つめる鍋は煮えない」と言いますが、近視眼的にものごとを見つめるとき、人間に悩みはつきません。長期的視野でものごとを眺めるとき、そのような悩みの多くは消失します。
私は悩むことが無意味であると申し上げているのではありません。悩めばこそ訪れる歓喜があります。ある朝、涙をこらえながらもしっかりと手を振って初めて列に参加した我が子の姿。それは一生の宝と言えるのではないでしょうか。それから一年後、今度は別の意味で驚かされます。新年度が始まると、また新たに涙を流す子どもたちが登場します。するとどうでしょう、驚くなかれ、我が子がその泣く子を励まし、ハンカチで涙をふいているではありませんか。
私は仕事柄、毎年このような感動のお裾分けをいただいています。いったん涙の時期を過ぎ、どの子もあたりまえのように登園できるようになっても、私はそれをけっして「あたりまえ」なこととは思いません。親子が笑顔で「いってきます」、「いってらっしゃい」と挨拶を交わす姿は何より尊いものに見えますし、子どもたちが一歩一歩、しっかり山道を登る姿は、文字通りの意味において「自立の一歩一歩」と呼ぶに値します。
今年も見事に花が咲きました。先日「お招き会」を開きましたが、来春も同様だと信じております。
上の引用文は、「信じて待つ」ことの大事さを述べています。
情報過多の時代です。大人はとかく不安にかられやすいです。
「信じる」ことは大事だと頭で理解しつつ、じっさいには「じっくり待つ」前にあれこれ口出し、手出しをするのが一般です。
それは親切の裏返しでもありますが、同時に「信じていない」事実を本人に見せつけるようなものです(=信じていればこそ見守ることができる。子どもは大人のこの姿勢に敏感である)。
これは、家庭教育のみならず、幼児教育の現場でも同じことが言えます。
一人一人、成長のスピードは異なります。
大事なことは、一人一人の可能性をどこまでも信じて応援すること。
自立の一歩一歩を見守り、寄り添って歩むこと。幼児教育の意義は、この点に尽きると思います。
「信じて見守る」には経験と忍耐が必要ですが、子どもたちが大輪の笑顔の花を咲かせたとき、すべての苦労は吹き飛びます。