本園は徒歩通園です。みんな仲良く手をつないで石段を登ります。子どもたちは毎日手をつないで歩くことで、人生を自分の足で歩く基礎を培っています。
本園が徒歩通園を大切にする理由は次の三つの教育的観点からです。
1 毎日歩くことで足腰が強くなります。
2 少々の困難に負けない自立心が培われます。
3 手と手をつなぐことで、人を思いやる心が養われます。
それ以外にも社会性を養うなど大事な意味は多々あります。
以前「お山の幼稚園で育つ」(世界思想社)の中で、歩くことにまつわる保護者のご不安にふれて次のように書きました(ポイントの箇所のみ抜粋します)。
はじめて園を見学された保護者は異口同音に「年少児も歩いて登るんですか」とか、「泣いて登るのをいやがりませんか」とお尋ねになりますが、子どもたちを引率する立場で言えば、体力面での心配はいっさいご無用です。むしろ心配の種があるとすれば、入園直後に年少児が「お母さんついてきて」と泣いて訴える可能性です。
集団による徒歩通園ですと、バスのように目の前の扉が閉まることはないため、我が子が泣けばその姿を否が応でも目にせざるをえません。泣いてしゃがみこめば、列についてお母さんも「登園」することもありえます。晴れやかな笑顔で「いってきまーす」と手を振る子どもがいるかたわらで、わが子が声をからして泣いているとしたら、親にとってこれほどショックなことはありません。
月齢や家族構成など様々な要因があるかもしれませんが、原因の詮索はしないでいただきたいと私は入園前の保護者会で申し上げています。それが難しいことは百も承知です。だから「あえて」そうお伝えしています。ありがちなのが、自分の育て方が悪いから泣いて登園を渋るのだという解釈です。そう思ってしまうと、親にとっても子どもにとっても悪循環が始まります。
一般に、人前で泣くことはよくないとみなされますが、時と場合によっては泣くことも必要です。泣いて渋るお子さんは、本当は「行かない」と言っているのではなく、心の中では「行きたい」と言っています。ただ、自分一人で行く勇気が出せずにいるだけです。つまり、涙はその準備をしているサインだということです。ある意味前向きでポジティブなサインなわけですが、それを「悪い」とみなせば子どもは迷い、勇気を出すことをためらいます。
そして、ここが肝心なことなのですが、どんなに泣いて渋った子どもも早晩一人で登園する日が訪れます。一人の例外もなしにです。古の賢人が「人間は社会的動物である」と喝破したように、子どもたちにとって独り立ちをして社会に加わることは、いわば本能の要求に従う行為なのです。だとすれば、親はそう達観し、あとは子どもが腹を決めるのを待つだけです。そのタイミングが入園の前かその後かの違いがあるだけだと考えればずいぶん気持ちは楽になるでしょう。
子どもの登園をめぐるタイミングの問題は、桜の開花日の予想と似ています。多少の誤差はあっても毎年三月下旬から四月の上旬にかけて桜は咲きます。例外なしにそうなります。しかし、特定の日(入園式など)に満開であってほしいと願うとき、開花予想日は大きな心配事に早変わりします。「見つめる鍋は煮えない」と言いますが、近視眼的にものごとを見つめるとき、人間に悩みはつきません。長期的視野でものごとを眺めるとき、そのような悩みの多くは消失します。
私は悩むことが無意味であると申し上げているのではありません。悩めばこそ訪れる歓喜があります。ある朝、涙をこらえながらもしっかりと手を振って初めて列に参加した我が子の姿。それは一生の宝と言えるのではないでしょうか。それから一年後、今度は別の意味で驚かされます。新年度が始まると、また新たに涙を流す子どもたちが登場します。するとどうでしょう、驚くなかれ、我が子がその泣く子を励まし、ハンカチで涙をふいているではありませんか。
私は仕事柄、毎年このような感動のお裾分けをいただいています。いったん涙の時期を過ぎ、どの子もあたりまえのように登園できるようになっても、私はそれをけっして「あたりまえ」なこととは思いません。親子が笑顔で「いってきます」、「いってらっしゃい」と挨拶を交わす姿は何より尊いものに見えますし、子どもたちが一歩一歩、しっかり山道を登る姿は、文字通りの意味において「自立の一歩一歩」と呼ぶに値します。