絵本の読み聞かせについて思うところを述べます。

どの幼稚園にも保育園にも絵本はあります。ご家庭にもあるでしょう。私はよく自園の先生に、「絵本がなくても子どもたちに自分の物語を語ってください」とお願いしています。子どもたちは、先生自身の体験した話や思い出話をすると、目を輝かせて聞き入ります。

似た例として、「ピアノがなくても自分の好きな音楽を歌ってください」とお願いすることもあります。たとえば、大雨が降って、子どもたちと何もない場所で雨宿りをしなければならないとき、子どもたちとどのような時間が過ごせるでしょう?

子どもたちに伝えたいもの、語りたいものを持つ人は、絵本やピアノがなくてもそんなとき平気です。「平気ですか?」と私が尋ねて、「はい、平気です」と笑顔で言えるよう日頃からあらゆる準備のできる先生でいてください、というのが私が常々お願いしていることです。モノがあるから教育ができるのではなく、心があるから教育ができるわけです。お手本として思い浮かぶのは、『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアさんでしょうか。

同じことはご家庭でも言えるでしょう。子ども時代は「モノより思い出」と言われます。たとえば長期休暇を前にして、様々な思い出作りの計画に余念がないご家庭もあれば、忙しくてそれどころではないというご家庭も様々でしょう。私はどちらであっても、親が子どもの未来に思いをはせる気持ちをもつ限り、子どもにとって最高の思い出の種まきはいつでも可能だと思います。

私自身の子ども時代をふりかえると、両親は仕事で忙しく、家族全員で旅行は中学1年生の夏休みまで一度もありませんでした。そんな私の幼稚園時代の夏休みは「暇でいっぱい」、「やりたい放題」でした。家では絵を描くか、ブロック(レゴ)で遊ぶか、工作をするか、なにか手を動かしていました。日中に親と行動をともにするということは一つもなく、いつも自分で何かテーマを決めて(たとえば船の絵を描こうとか、レゴで飛行機を作ろうとか)一人で遊んでいました。

ただし留守番のときは時間の使い方で苦労がありました。あるとき両親の帰りがあまりに遅く、まちわびる弟(年小)と妹(2歳)の面倒を見る中で、家のふすまをキャンバスにしてクレヨンで地図を描いたことがありました。「今おとうさんとおかあさんはここにいる。ぼくたちのいえはここ。やおやさんがここでパンやさんはここ。もうすこしまてばお父さんとお母さんはかえってきはる。なかんでいい」と。そういいながらあちこち絵をかいているうち、弟も妹も面白そうだということで絵を描き始め、三人で大いに盛り上がりました。

こうして私たちは大胆にも家のふすまいっぱいに落書きをしたわけですが、帰宅した両親は絵を見るなり大笑いしてくれました。そして私たちの共同「作品」を父は写真に撮ってアルバムに貼ってくれたので、今でもあれは夢ではなかったと思い出すことができるのです。つまり、父の取った行動は立派な思い出の種まきであり、その花は今も私の心の中で咲いています(このように親の一瞬の判断ひとつでも思い出の種まきは可能だといえるわけです)。

私が親に感謝したいのは、そうやって幼少期の私の「暇」と「自由」を守ってくれたことですが、それだけでは小学校に上がってから学校の勉強で苦労したと思います。私がもう一つ感謝したいことは、三人の子どもが川の字になって寝る前に、父がどんなに忙しくても必ず本を読んでくれたことでした。

毎晩枕もとで物語を聞く経験はなにものにも代えがたい喜びでした。また、その影響は決定的で、小学校に入り文字を学ぶことがどれだけ新鮮に思えたことでしょうか。ゆっくりであっても父が読んでくれた本を開いてひらがなを追っていけば、自分一人でその本が「読める」ことを知った私は、これこそ人生最大の発見のように思ったのでした。

それから半世紀以上が経ち、時代はあまりに忙しく、子どもたち、そしてご両親を取り巻く社会環境は激変しました。しかし、人間の喜怒哀楽の根本が変わらぬ以上、子どもはいつの世でも子どもであります。きれいな花を見て、大人が「きれいね」と言葉を発するなら、子どもにとってそれは立派な物語であり音楽になるのです。「すてきね」、「たのしいね」といった共感の輪が子どもの情緒を育てることでしょう。

親から見れば、いつも子どもと関わるわけにはいきませんし、人間である以上時には感情とともに叱る場面もあるでしょう。それは昔も今も変わらない人間のありのままの姿です。しかし、人間は誕生以来、たえず理想を追いかける存在でもあり、それは大人だけなく子どもも同じです。その限り、親と子は絵本という理想化された世界の中でともに心を遊ばせ、現実の様々な喜怒哀楽を超越することが許されます。親が子に「むかしむかしあるところに」と語りだせばすべてがリセットされ、思い出を共有するひとときが始まります。美しいものが美しいものとして、また、立派なことが立派なこととして素直に描かれる世界が文学であり、それが子どもたちの接する絵本の世界のはずです。

この先電気仕掛けの娯楽がどれだけ発達しても、親が子に心を込めてそうした物語を読み聞かせるかぎり、時空を超えた最高の思い出の種まきが可能になると私は信じてやみません。

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