昨日は、「子のたまわく」という言葉をめぐる、古今東西の解釈の相違にふれました。
単純化して言えば、「論語」の言葉(or 学校の先生の言葉)を鵜呑みにするだけではいけない、ということであり、東洋の古典に難癖をつけることが趣旨ではありません。
漢字の持つ意味は多様で深い解釈を許すので、年齢と共に受け取り方、感じ方が変化していきます。
「論語」は教育に関係した言葉の宝庫なので、私自身、あらためていくつか読み返しています。
たとえば、「賢を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みるなり」という言葉があります。
優れた人を見て、自分はまだまだ及ばないと思い、他方、そうでない人の例を見ては、自分にもそういう要素がないか、反省してみる、という意味で私は理解しています。
これだと、どんな人と出会っても、また、テレビや新聞などで、様々な人たちが、様々な取り上げられ方をしている例を見ても、常に自分にとって何か学ぶところがある、ということになります。
なんだ、簡単なことを言っているじゃないか、と思われるかもしれませんが、なかなか難しいことを言っています(多くの人はその逆をやっている)。
普通の人は、他人から謙虚に学ぶ姿勢を忘れ(=うぬぼれが強かったり)、一方、世間でよくないことをした人を、憂さ晴らしのように批判する傾向があるためです。
また、もっと身近な例をあげれば、たとえば、子どもが通う学校を選ぶ場合を想定しても、自分(親でも子どもでも)に確たる「見る目」があれば、「賢」に出会えばそれを手本ととらえればよく、「不賢」の例に出会えば、それを自分の反省材料として利用する、つまり、見つめるべき、磨くべきは、自分の「選択眼」である、という考えに導かれます。
どんな学校であれ、大学であれ、かならず「賢」と「不賢」から成り立っています(世間の言う「よい」「わるい」はその割合が違うだけです)。
選択眼がなければ、「賢」の多い学校で劣等感を感じるだけで終わるでしょうし、「不賢」の多い学校なら、易きに流れる結果で終わる可能性があります。
その逆の場合、前者であれば、自分の「賢」の部分をいっそう伸ばすことができ、後者の学校に行ったとしても、「不賢」とはほどよい距離を取りつつ、少ないながらも存在する「賢」と共鳴し、互いを高め合って向上していくことは可能です。
要は「自分次第」ということです。
一番大事にすべきものが何かを、中国の古典はさりげなく、しかし、しっかりと伝えてくれる、と思います。