ヨーロッパの古い格言に「本は寡黙な教師である」という言葉があります。

本から学ぶところは大きいわけですが、「饒舌な」先生の方がよいではないか、と思う人がいるかもしれません。

雄弁で流れるように上手な説明をする先生はありがたい場合もあれば、その逆の場合もあります。

子どもが主体的に考える時間を守るという観点からいくと、饒舌な説明は立ち止まって考える時間を奪う可能性があります。

考えている間に説明はどんどん先に行くからです。

自分の考えが動き出したら説明は適当に聞き流し、自分の考えを自由に展開するのもよいでしょうが、学校ではふつうそれは推奨されません。

じつは、あえて「考える時間を奪う<可能性>がある」と書いたのは、生徒が「はいっ!」と手を挙げて、「自分はこう思う」と発言したり、質問したりできるなら、考える時間は守られるでしょうが、これも学校で実践することは推奨されません(説明の時間を遮断するので)。

これは先生のせいではなく、学校教育の授業はそういうものだ、ということです。

※我田引水になりますが、山の学校のスタイルは、少人数によるゼミ形式が基本であり、自由な対話が成り立ちます。

人間が人間に一方的に説明する図式だと、どうしても聞く側は受け身になりがちです(他方で、効率的に基礎的知識を習得するうえで編み出された一つの有効な方法だという点は認める必要がありますが)。

だから、それはそれでよしとし、一方で生徒は「自衛」しなければなりません。何をかと言えば、自分の考えを、です。

そこで、最初に挙げた格言につながるのですが、自分で本を読むことがなによりの有効な手立てとなります。「寡黙だから」です。

効率よく試験に出そうな知識を習得するだけが目的なら、「自分の考え」は捨てて、虚心坦懐に暗記に明け暮れる方が時間の効率は良いです。

ただ、合格して燃え尽きる可能性が懸念されます。

一方、合格してからしりあがりに力を伸ばす生徒(学生)もいます。

私は、その差は、自分の考えを守れるかどうか、にかかっていると信じています。

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