以下は覚書です。

ある大学の教育方針に問う力、書く力を鍛える、というのがあり、まことにもっともだと思う一方、なぜもっと早い段階で鍛えないのかという素朴な疑問が浮かぶ。大学では遅すぎる。これは小学校でやることだ。

書いたものを添削される。それを直してもっていく。添削する人の手元をドキドキしながら見つめる。添削する者もされる者も張り詰めた気持ちで一杯となる。教育はまことに手間暇のかかるものである。

小学校でこれをやろうとすると、最低今の5倍の先生は必要だと思う。あるいは先生を今の激務(授業以外)から解放するしか改革の道はない。

親が子どもの本物の教育に関心を持つなら、親が先生の代わりを務める道が考えられる。本の読み聞かせも、小6まではすなおに喜んで聞く。その関係を生かして、ときに子どもの読んだ本について意見交換する(そのためには「これは」という本は自分も読む)、あらすじを書かせる、自分の解釈を書かせる、そして添削する、等。

中学入試ということになると、こういうやりとりに時間がとれない可能性が高い。もし受験を考えていないなら、言葉の教育を親が積極的にかかわることが大切である。

かかわりかたのコツは、「長続きさせるにはどうすればよいか?」相手の身になって考えることである。高圧的な態度がダメなのは当然だが、多くは教師然とした態度で臨むので続かない。

子どもが「読むことは楽しい」、「書くことは(しんどいけれど)楽しい」と感じるような持って生き方ができれば成功である。

我田引水となるが、この大事な学びの部分について、山の学校は創設以来、小学生から大人までを対象として、実践を重ねてきたので、どうしてもうまくいかない場合は相談していただけたらと願う。

本音を言えば、世の中の「塾」が試験対策でなく、上でのべたような懇切丁寧な言葉の教育をやってくれたら、世の学校教育も(今の形をベースとしても)がぜん活気づくと思う。

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