職業柄、桜の花を見るたび、「希望」と「不安」の2つの言葉が心の中で交錯します。
毎年新緑の季節になると、そうした気持ちにも一つの区切りがついています。
漢字の「望」のつく言葉に「希望」、「願望」、「欲望」があり、後に行くほど「望む」気持ちが強くなります。
ローマの賢人セネカの言葉に、「希望とは不確かな善きことの名前である」というのがあります。
妙な表現ですが、「ああなればいい、こうなればいい」という未来の願望は、「不確かな」「善きこと」への願望であり、その不確かさゆえに、我々を苦しめると主張しています。
要は、希望と不安は背中合わせ、ということです。
セネカをはじめとするローマの哲人たちのアドバイスは「今を生きよ」というもので、これは日本でもおなじみの考えです(「徒然草」など)。
ぼんやり遠くを見るのではなく、運命の計らいで授かっている、「今」このときの恵みに感謝して生きよ、というテーマをそのまま詩の中で歌ったのがホラーティウスという詩人で(2千年前のローマの詩人)、その詩の有名なセリフとして「カルペ・ディエム」というのがあります。
日本語に直訳すると、「その日を摘め」となります。
アメリカ映画『いまを生きる』(原題: Dead Poets Society)に出てくるラテン語でもあります。
ホラーティウスの詩は次のようなものです。
神々がどんな死を僕や君にお与えになるのか、レウコノエ、そんなことを尋ねてはいけない。
それを知ることは、神の道に背くことだから。
君はまた、バビュロンの数占いにも手を出してはいけない。
死がどのようなものであれ、それを進んで受け入れる方がどんなにかいいだろう。
仮にユピテル様が、これから僕らに何度も冬を迎えさせてくれるにせよ、
或いは逆に、立ちはだかる岩によってテュッレニア海を疲弊させている今年の冬が最後の冬になるにせよ。
だから君には賢明であってほしい。酒を漉(こ)し、短い人生の中で遠大な希望を抱くことは慎もう。
なぜなら、僕らがこんなおしゃべりをしている間にも、意地悪な「時」は足早に逃げていってしまうのだから。
今日一日の花を摘みとることだ(カルペ・ディエム)。
明日が来るなんて、ちっともあてにはできないのだから。
カルペというのは「花を摘みなさい」という意味です。「ディエム」は「日」を意味します。一日=花という錯覚が生まれ、一日一日を花畑から摘んだ花のように大切にせよ、という意味で理解できます。
「一期一会」と訳されることもありますが、元来はロマンティックな恋愛詩の詩句だとわかります。
「万葉集」をはじめとする日本文学にはすぐれた古典作品が目白押しですが、一方で2000年以上昔から伝わる西洋古典文化にも関心を持つと視野が広がるのでおすすめです。