今日は保護者参観日でした。
年長児は朝一番で俳句に取り組みました。
いつものように背を伸ばして黙想し、一茶の俳句を何度も声に出しました。
子どもたちは小学校にあがり、文字と出会います。
文字を読めるようになった先、いろいろな本を黙読すると思います。
言葉の教育の基本は文字を使わないところにあります。
このことで、以前「山の学校の」の広報誌(やまびこ通信)に次のようなエッセイを寄稿しました。
『山の学校の取り組み──文字を使った学習を大事にするために』
カエサル(シーザー)の残した『ガリア戦記』によると、ガリアの支配階級ドルイド僧は教育を行うにあたり文字を使わず、弟子には口伝えで教義を伝え、文字に記録することを許しませんでした。「学ぶ者が文字に頼って暗記に精を出さなくなるため」とカエサルは説明しています。
言うまでもなく、暗記は学びの基本です。教師や親は暗記を励ますことはできても、代わりに暗記してあげることはできません。この文脈でカエサルの言葉を読むとき、確かに「文字が学ぶ者をダメにする」と言えなくはない。そんな気もします。
文字は寛大で、何度同じ事を尋ねても嫌な顔ひとつせずに答えてくれるでしょう。教科書は文字でできており、それゆえ学習者は場所を問わず何度も繰り返し学ぶことができます。しかし、この利点が同時に油断の付け入る隙にもなります。つまり、学習者に「また後で…」とか、「(学校でなく)家に帰ってから…」などと、今学ばないことの言い訳をいくらでも許すのです。
逆に、熱心な学習者であれば、今述べた文字の利点を最大限に生かし、「いつでも、どこでも、何度でも」教科書を開き、最大の学習成果をあげるでしょう。要は、文字とのつきあいかたが問われているのです。私見を述べれば、文字のある学習を大事にするコツは、文字を使わない学習を大事にすることです。
このことを考える上で、日本の伝統的教育にヒントがあります。ズバリ、「素読」です。素読は文字を使いません。学習者は耳で聞いた通りの言葉を口に出して反復します。手前味噌となりますが、私が園長を務める北白川幼稚園では、過去60年以上にわたり、年長児は「俳句の素読」をします。また、山の学校では熱心な小学生たちが「論語の素読」に取り組んでいます。
私は子どもたちに、耳で覚えた言葉を正しく文字に直せとは言いません(それをすると本来の狙いがぼやけてしまう)。その瞬間最大限に集中するという態度を養う上で、素読の効果は歴史的に見ても実証されています。
素読とはいわば、文字の断食です。食を断つことで逆に食べる力が整えられるわけです。文字を断つことを通じ、文字のある学習がいっそうありがたく思われ、それを口にすることへの憧憬の念がかきたてられます。「有り難さ」を知るには、「有る」ことが「難い」状況を体験するのが一番です。
次に注目したいのが、ヨーロッパの伝統的教育としての「対話」です。「文字を使わない学習」というとピンときませんが、人と人が目を見て行う「対話」は、古代ギリシャ以来大切にされてきた学びの方法です。あることについて知っているかどうかは他人に説明してみればわかります。
言葉に詰まったり、(知識のあやふやさから)話しにくさを感じなら、再度勉強しなおして知識を補充します(その際文字を使った勉強に意味が出てくる)。どうしても印刷された文字を通じての学習が中心となる昨今です。自分の知っていることや考えていることを確認するためにも、文字のある勉強のありがたさを再認識するためにも、ときに他人の目を見て発表したり、疑問に思ったことを相手に質問する経験は、今後ますます重視されるでしょう。
ただ、一般には学校にこのことを期待するのは難しいと思います。どのようなレベルの学校であれ、1クラスの定員が10人を超えると、自由闊達な「対話」を実現するのはやはり困難です。
その点、山の学校では、1クラスの定員を5名としています。その理由は今述べた「対話」による学びを重要とみなすためです。学校でもクラスで発表する機会はあると思いますが、主となるのは黒板を使った一斉授業です。私自身その恩恵を今も感じていますし、今後もこの文字を使った学習スタイルが学校教育の基本となるでしょう。
だからこそ、放課後の私塾である山の学校では、先生と生徒が自由に言葉をかわすことのできる学習環境を整えたいと考えます。学校教育の補完としての意義ここにあり、ということです。
望ましいのは、学習者がハツラツと勉強に取り組む環境づくりであり、そのためには、文字に頼らない学びの取り組みにもっと光をあてる必要があると考えます。その意味で、最後に強調しておきたいことは、私が述べたことは何も難しいこと、目新しいことではなく、各家庭で実践できることばかりだということです。まずは、素読はなくても素話を! と言いたいところです。親が子に語る素話や本の朗読の習慣は、子どもが一人で文字を追うための基礎を作ると同時に、何よりも子どもにとっては心に残る一生の宝になるでしょう。
次に、対話ということについて言えば、その基本はまさに家庭にあります。小さい子どもはあれこれ親に質問してきます。その一つ一つに付き合うことは難しいでしょうが、そのいくつかについて、可能な範囲で親が誠実に答えるなら、そのやりとりは子どもの心に大切な学びの姿勢を宿らせます。大人自身、わからない言葉の意味を辞書で確かめる…。その姿勢が子どもに大事な何かを伝えるでしょう。司馬遼太郎も書いていますが、「めし、風呂、寝る」といった単語の羅列でなく、文章語にした言葉のやりとりを日頃から大人が心がけることも、子どもの学びの環境づくりの上で大切です。
このような土台ができてこそ、文字を使った学校教育のありがたみがひときわ輝くのだと思いますし、山の学校としても、その光がいっそう明るく確実に子どもたちの心を照らすように、できるだけのことをしていきたいと考えています。
現在も、山の学校では小学生、中学生、高校生が、一冊の本を声に出して読み、内容を文章にまとめ、先生や他の参加者と意見交換をし、最後まで読み通すクラスを開いています。高校生になると『アエネーイス』やセネカの作品などを最後まで読み通すこともします。中学生は現在ミヒャエル・エンデの『モモ』を丁寧に読んでいます。内容に関心のある方はいつでも気軽にお尋ねください。