4月は入学や進級の月です。希望と不安の入り混じる月でもあります。ローマの哲人セネカは「希望のあとを恐れが追いかける」という言葉を残しました。「こうなればいいな」という願いは、「こうなったら困る」という不安と紙一重であり、何かを期待する心は、それが手に入らない未来への不安と恐れを招きかねません。
セネカの助言は、不確実な未来に過度の信を置かず、今目の前にある現実を尊重せよ、というもので、どこか「徒然草」の人生訓を思わせます。昔のローマの賢人は異口同音に「今を生きよ」のメッセージを残していますが、わが国の古典にも「一期一会」をはじめとした同趣旨の言葉をいくつも数えることができるでしょう。
「今を生きよ」と言われて、どのような生き方をイメージすればよいのでしょうか。人によってこの言葉の解釈は様々だと思いますが、私はまっさきに一心不乱に遊ぶ幼児の姿を思い浮かべます。幼児の遊びは、これをやればほめられるとか、有利な立場に立てるといった、なんらかの利得を期待してなされる行為ではありません。
大縄跳びで100回跳べた子は、誰に言われなくても200回を目指します。かりに跳んだ回数で成績評価が行われるなら、それは遊びでなく苦役に早変わりします。目指す回数が跳べればほっとし、跳べなければ歯を食いしばって練習するかもしれませんが、跳ぶ回数で他人と競わされると、大縄跳びはいっぺんに嫌になるでしょう。
学校の勉強も同じです。勉強は本来面白いものですが、競争のための手段と位置づけられると、とたんにつまらなくなります。それを面白いと思い続けるためには、今の自分の気持ちに忠実に学ぶことが必要です。「なぜだろう?」と不思議に思うことは何であれ、それは先生でなく自分が自分に出した質問です。それを出発点として自分の学びを深める道を確保できれば、勉強は面白いものであり続けるでしょう。
人間は放っておいても未来を思い不安にかられるものです。それは学校に通う子どもたちも同じです。言われなくても、将来の進路や試験のことを真摯に考え、不安を抱いています。大人は黙って見守り、相談があれば助言する程度で十分です。その関係が築けず大人自身が不安に苦しむのなら、「今を生きよ」の金言に耳を傾けるべきでしょう。大人が童心を忘れず学びの好奇心を失わない限り、子どもは黙ってその背中を見て学びます。試験に出るか出ないか、といった狭いものの見方にとらわれず、面白いこと、興味深いことを手掛かりにどこまでも自らの学びを広げ、深めるでしょう。
令和1年4月25日 園長だより