私はあちこちで「見守る」ことの大事さをお話ししています。
ただ、何もしないですむなら苦労しない、という思いを抱く人は少なくないと思います。
たとえば、鉄棒の逆上がりに挑戦する子がいるとします。
ここぞとばかり「指導する」よしあしというのがあります。
大人に下心があると、すぐに見抜かれます。
子どもはあきっぽいです(正確にはあきっぽく見えます)。今鉄棒に取り組んでいたかと思うと次は別の遊びに夢中です。
大人のシナリオに合致した取り組みだけ「指導」したり「励ましたり」するのではなく、子どもの取り組みの全体を黙って「見守り」応援して欲しいと思います。
これは子どもの気持ちの代弁です。
逆上がりが得意な子どもは、最初から得意なわけではありません。別の子ができるのを見て、「よし、自分も」と決意し取り組んだ結果、できるようになります。
そのようなストーリーでできるタイプの子は、誰に言われなくても挑戦し、できるまで練習します。
そうでないタイプの子は、二三度挑戦し、無理だと思えば別の遊びに気持ちを向けます。
一見あきっぽく見えます。大人から見てやればできるのに、と残念に思ったりしますが、放っておくのがベストです。
もし本当にその子に悔しさがこみあげるなら、一度離れたかに見える鉄棒に必ず自分の意志で再挑戦します。再挑戦するからよく、そうでないから駄目というのではありません。
もし再挑戦しない場合、別のテーマで「挑戦するチャンス」をその子は必ず探しあてようとしているからです。
そのとき、あれがいいんじゃない?と横から大人の好みを押しつけたら、子どもは嫌な顔をするでしょう(大人でもそうです)。
だから、見守るのが一番よいのです。
大人と違って、子どもは挑戦することを本能的に好みます。
言われてやるのは挑戦ではありません。
自分で自分に「よし、やろう」と呼びかけ、実行に移すのが挑戦です。
大人の言動はしばしばこのプロセスに水を差すことが多いので、私は「見守る」くらいのスタンスでちょうどバランスがとれると思うのです。
ただでさえ、子どもの「挑戦」は周囲によってチャンスを摘み取られる確率が高いのですが、小学校から上に上がると、いろいろな取り組みに「評価」(文字通り成績)がついてまわるので、子どもたちのやる気は一瞬でしぼみます(その恐れがきわめて高い)。
「よし、やろう」と自分で自分に命じて行動するところに意味がありますが、成績がつくとなると、周囲は色めき立ち、大人が決めた目標が達成できるようプレッシャーを掛けます。
たとえば、小学校から始まる「勉強」は本来楽しいものです。
なぜそう感じない人がいるかと言えば、周囲がよってたかって「評価」のプレッシャーを与えるからです。
たとえどんな成績であろうと、黙って見守ると心に決めて欲しいと思います。
学校の先生は仕事上「評価」せざるをえませんが、家庭でその「評価」をどう評価するかは自由です。
過剰に反応するのでなく、無視するのでもなく。
小学校の初っぱなから悪い成績をとったとして、本当にその子は成績が悪いままで人生を終えるのでしょうか。じつはその逆です。
逆に最初に一番の成績をとったとして、その子はずっと一番をとり続けるのでしょうか。進学校にあがるなどすれば、上には上がいます。満点や1番にこだわっても、どこかで息切れします。
こうすれば一番がとれるとまことしやかに言う人がいますが(東大をトップで、等)、運がよくて成績がよいだけ、という可能性も考慮しないといけません。
そして、人生は大学を卒業して終わり、というものではありません。
これから人生100年時代といわれます。
会社を辞めてからあとも、ずいぶん長い間元気で快活に生きないといけません。「いけません」というのも妙な言い方ですが、「一生尻上がりに学び続ける」喜びを知らなければ、さてどうして余生を過ごそうか?と思案に暮れる人も出てくるかも知れないので、このように言うほかありません。
人間には学ぶことを楽しむ本能があります。幼児も大人も老人も同じです。
成績が悪いと言って嘆くのは、この本能を信じず、「今なんとかしないとだめになる」と目先の成績の上下を考えて、本人の興味と関心をそぐことにいっしょうけんめいになっているのです。
だから、黙って見守ることが一番大事です。
成績がつくのはしかたないです。これもいつもいうように、できたところだけ指さして「満点だ。すごい」と言えば、子どもは本当にそう思います。
「そうか、残りの問題も同じようにやればできるんだ。よし、がんばろう」と、大人にいわれなくても自分で自分に語りかけ、心に誓うでしょう。
見守ることは難しいことではありません。
親であれば誰もふつうにできることです。
なぜかというと、赤ちゃんに対しては誰もが見守ったわけです。
見守る内に、自分で歩くようになりました。
毎日、手を取り足を取り、「歩け、歩け」と「指導」した成果でしょうか。
どこかに「指導」を依頼した結果、歩けるようになったのでしょうか。
原理は同じです。
ただ、勉強、スポーツ、音楽など、なぜか大人の願望が複雑に投影するジャンルに関して、本人の自覚が伴わないうちに、手取り足取り「指導」したいと思うあまり、プレッシャーで自信を奪ってしまう。
よかれ、と思ったアプローチが徒になる、ということを「赤ちゃんの見守り」を思い出して、実感してもらえたら、子どもとほどよい距離がとれるでしょう。