作家の司馬遼太郎は中学時代に英語が嫌いになりました。理由は英語の授業中に「ニューヨークってどういう意味ですか?」と先生に尋ねたら、「地名に意味などあるか!」と一喝されたためでした(「“独学”のすすめ」)。
教育において子どもの好奇心を「どう育てるか」という議論がよく行われますが、私はそれを「どう守るか」の視点が大切だと考えています。「守る」の基本は、子どもの好奇心を尊いと思うことに尽きます。そして、そう思えるには、大人自身が自分の好奇心を守る人でなければなりません。
司馬少年の問いに対しては、「おもしろいことを聞くなあ」と受けるのが基本であり、あとは、言葉の背景を知っている場合は教えてもよし、時間に余裕がなければ後で個別に教えてもよし。かりに答えを知らない場合、正直に知らないと言えばよいでしょう。その潔さが子どもたちに大切な学びの姿勢を伝えます。「ごめん。先生も知らない」と告げたとき、子どもたちが宝探しをするかのように自分たちの手で正解を調べようと意気込むなら、それは日頃から先生との信頼関係や子どもたち自身の好奇心が大切に守られている証拠です。
同じことは家庭生活においても言えるでしょう。子どもは成長の段階で親にあれこれ質問する時期があり、場合によっては、「忙しいのにうるさいな」と思うことがあるかもしれませんが、そう口にしたり態度に表したりすると、司馬少年の英語教師と同じ轍を踏むことになります。それが日常的に繰り返されれば、子どもの好奇心は穴の空いた風船のようにしぼむ一方でしょう。何を置いても子どもの質問にはじっくり耳を傾け、「おもしろいことを聞くね」と共感できる大人でありたいです。
どんな些細なことであれ、子どもが大人に向かって何かを問うとき、子どもはその問いをきっかけに大人と対話し、自分を高めたいと願っています。じっさい司馬少年は上の質問を通し、「地名の意味を考えるとわくわくする」という気持ちを先生に伝えたかったのでしょう。
では、その問いを「おもしろい」と受け止めた後、大人はどのように言葉を繋いでいけばよいでしょうか。私のお勧めは、問いを返す、です。先の質問であれば、「そういえば東京ってなんで東の京なんやろ?京都となんか関係あるんかな」と問うことで、よどみなく対話は続くでしょう。ただし、このような問いを出すには、大人自身が童心に帰り、子どもの心で世の中を不思議を見つめる目を持たねばなりません。
子どもの好奇心をどう育てるか。この問題を掘り下げると、結局の所大人自身が心にゆとりを持ち、自分の好奇心をどう守るかを考えないといけない、という話に落ち着くように思います。
令和1年11月5日 園長だより